
50年代以降、クレンペラーは音楽界の大物、ドイツ・オーストリアのオーケストラ・レパートリーの決定的演奏家、とくにベートーヴェン、ブルックナー、マーラーの交響曲の権威となった。クレンペラーの演奏では、大造りの構成と生き生きとした細部が、紛いようのない彫塑性と緊張感で結びついている。彼は主観を抑え、フルトヴェングラーの呪縛性ともバーンスタインの告白性とも無縁だった。圧倒的な明晰さと一貫性により、彼はどの時代の傑作も、わざとらしさを排して、その現代性を実在のものにしたのだ。
(ナディア・ゲーア)
~E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P205


クレンペラーの音楽は重心低く、内声の充実を図る謹厳実直なものが多い。
特に、ウォルター・レッグとの一連のEMI録音にそのことは著しい。
(かつて朝比奈隆が、クレンペラーの録音を評価し、彼の演奏を常々参考にしていると言っていたが、造形の部分ではかなり近しいものを感じる)

ただし、朝比奈と明らかに違うのは、クレンペラーの場合、普段聴き慣れない旋律やフレーズが浮び上るという、クナッパーツブッシュらに通ずる「遊び」の精神(?)があることだ。

クレンペラーの「英雄」。
そういえば、僕はクレンペラーの「英雄」を一度も採り上げたことがなかったかも、と思い至った。
精悍な第1楽章アレグロ・コン・ブリオは、録音の良さも相まって古典音楽の最高峰だという印象。一方、第2楽章「葬送行進曲」の粘りは、クレンペラーならではの生命力の賜物だ。
第3楽章スケルツォ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)に透けて見えるアンニュイさは、おそらく躁鬱病を持病とするクレンペラーの陰性が顔を出したのだろうと思う。(魅力的だが、どこか停滞の雰囲気は良くも悪くもクレンペラーの「英雄」であることを示す)
そして、終楽章アレグロ・モルトの不思議な軽快さ、また解放感!
(こちらは躁の気を醸すクレンペラーの陽性を示す傑作か?!)
ところで、この「大フーガ」がまた素晴らしい。
明朗で明晰、見通しの良い解釈に心が躍る。
ベートーヴェン最晩年の逸品がこれほどまでにわかりやすい表現として表に出るとは!