
ルキノ・ヴィスコンティの柔和な眼ざしと面長の貴族的容貌を思い浮かべると、私はなぜかImmer-Frauen-Seele(永遠に女性的な魂)と言われた詩人ライナー・マリア・リルケのことを考えるのだ。もちろん二人を直接つなぐものはない。むしろトーマス・マンなら1951年にローマで彼は面識を得ているし、「ベニスに死す」はヴィスコンティの映画のなかで最高傑作の一つなので、この二人は極めて濃厚な関係にある。マンの『魔の山』はプルーストの『失われた時を求めて』と同じように、ヴィスコンティが早くから映画化を考えていた作品である(この二作ともついに実現されなかった)。
~「辻邦生全集19」(新潮社)P348
辻邦生の「ある貴族へのレクイエム」(1988)冒頭にはそう綴られている。
そして辻は、ヴィスコンティの提示する美というものを、次のように定義してエッセーを締めくくる。
実用主義・金銭・利己主義のメカニズムでがんじ絡めになっているわれわれが、とくにヴィスコンティの官能的陶酔に痺れてゆくのは、それが一種の溶解作用となって、そこから救出されるのを感じるからだろう。
その意味では、ヴィスコンティはレアリスモから審美主義に路線変更したのではなく、終始一貫、人間を擁護するために〈美〉を創造しつづけたといえる。
~同上書P354
「人間擁護のための美」とはよく言ったものだ。
とても納得した。
ヴィスコンティの「魔の山」や「失われた時を求めて」が完成されなかったことは至極残念。
長いあいだ、私は早く寝るのだった。ときには、蠟燭を消すとたちまち目がふさがり、「ああ、眠るんだな」と考える暇さえないこともあった。しかし30分ほどすると、もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめる。私はまだ手にしているつもりの本を置き、明りを吹き消そうとする。眠りながらも、たったいま読んだことについて考えつづけていたのだ。ただしその考えは少々特殊なものになりかわっている。自分自身が、本に出てきたもの、つまり教会や、四重奏曲や、フランソワ一世とカルル五世の抗争であるような気がしてしまうのだ。こうした気持は、目がさめてからも数秒のあいだつづいている。それは私の理性に反するものではないけれども、まるで鱗のように目の上にかぶさり、蝋燭がもう消えているということを忘れさせてしまう。ついでそれはわけの分からないものになりはじめる—転生のあとでは前世で考えたことが分からなくなるように。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて1」第一篇『スワン家の方へI』(集英社文庫)P29-30
眠りと覚醒の合間、いわゆるθ波状態のときの感覚は、時間を永遠のものにし、また時間を一念の生滅に等しいものに等しいのだろう(それこそ劫というもの)。
ルキノ・ヴィスコンティの創造する映画には僕たちの時間感覚を超えたそういうものが常に横たわる。

世界は幻想だとプルーストは見抜いていた。
そして、ヴィスコンティの見ていた「美」もやっぱり幻想のなかに存在するものだった(と思われる)。
果してヴィスコンティが「失われた時を求めて」を完成していたならば、使われた音楽は何だったのか? セザール・フランクか、あるいはガブリエル・フォーレか? 様々な推量がなされるが、それは永遠にわからない。
ちなみに、先のエッセーと同年に辻によって書かれた「樂興の時 十二章」の第1の章は「薔薇」と題され、それはガブリエル・フォーレの「レクイエム」によるものだ。
有名なオペラ歌手のクレリアの歌が教会堂の中に響いたとき、彼女のふだんの歌唱力を知っている聴衆も、一きわ哀切感に充ちて歌われるその崇高な響きに、死者の魂を抱きとるイエスが天使たちに囲まれ天の高みを昇ってゆく姿を見るような気がした。
小編成のオーケストラがアニェーゼの葬儀のために呼ばれたのも、そこで星空を渡ってゆくような純潔なメロディに満ちたこのレクイエムが演奏されたのも、すべてクレリアが母アニェーゼのために計画したことだった。もちろんそこでソプラノのパートを歌うのは彼女自身と決めていたのである。
~辻邦生「樂興の時 十二章」(音楽之友社)P7
何と静謐で、心洗われる表現であることか。
辻の文章は大概高貴な印象を湛えるが、ここからは明らかにフォーレのレクイエムが響く。
デュトワにそういう意図があったのかどうか知らない。
しかし、どこか肉感的で、大抵官能の表現を得意とするデュトワにあって、そういう側面を随分抑えた演奏に、彼のまた別の側面を垣間見るようだ。
その意味では、付録の組曲「ペレアスとメリザンド」、あるいは「パヴァーヌ」こそがシャルル・デュトワの真髄を獲得する。
モーリス・メーテルランクの戯曲に曲を付したその組曲は、発表当時ドビュッシーらは批判的に見ていたが、フォーレの書いた音楽は実に素晴らしい。そこには、それこそ「人間の価値は『良心』と『真の快楽』との一致するところにある」とするメーテルランクの思想に見事に合致するようだ。
「マーテルリンクは「自己の如く隣人を愛すると云つたって第一に自己を愛することを知らなければ始まらない。又自己の如く隣人を愛するのでは未だ足らぬ。他人の内の自己を愛するのでなければ。」と云ふやうなことを『智慧と運命』の内に申してをりましたやうです。この言葉は今より五六年前に読んだ時私には天啓のように響きました。私がトルストイ主義に反抗しだしたのはこの時に始まつてゐるやうな気がしてゐます。」(『「自己のため」及其他』明治45)
~福田清人編/松本武夫著「人と作品 武者小路実篤」(清水書院)P76
武者小路がはまったモーリス・メーテルランクの天啓!
そして武者小路はまた次のように言う。
トルストイといふ大きな木が、50年、自分を思ひきつて成長させた後で到達した境地に、自己をまだ少しも生かしたことのない僕が、いきなり入ろうとするのに無理があつた。またこの世的な未練もあつた。また僕の性格とトルストイの性格のちがひ、ものを見る目のちがひを感じた。トルストイの言つてゐることはたしかに真理がある。しかし肉体を有することにまた僕は人生の意味があると思ひ、トルストイは偉いが、自然はなほ偉いと思はないわけにはいかなかつた。
~同上書P77
こういう武者小路実篤はやっぱり済渡されているらしい。
ステファニアは思わずその花びらに口づけをした。
「グィード、あなたなのね、ここにいるのは」彼女は長いこと薔薇を見つめてから言った。「今やっと私に分かったわ。愛するって、人々の幸せのために地上にいることなのね。人々を勇気づけるために永遠に生きようと意志することなのね」
その時ステファニアはどこかでレクイエムが聞こえるような気がした。しかし死者への追憶のそのメロディはいま生きる者への恵みとなって限りなく降りそそいでいるのであった。
~辻邦生「樂興の時 十二章」(音楽之友社)P21
「薔薇」の締めくくりはこうだ。
音楽は僕たちに慈しみと勇気を与えてくれる、否、本来具足されるそれらを思い出させてくれる。





このアルバム、〝レクイエム“目当てに購入し、聴きました。ソロイスト2人が、オペラティックな歌唱で〝喉自慢“的な趣きにならないか…と若干の危惧の念を抱いておりましたが、やはり優れた歌唱スタイルの歌い分けをなさっておられ…デュトワの指示もあったのでしょうか…安心して、浄福の世界に誘って、貰えました。
〝今、生きる我々に相応しいディスク“と、歓迎したのを覚えております。