いまでもどんなことを考えているのかよくわかりませんけど、(楽譜を)絶対に信頼をすることにしたんです。私たちは芸術家だなんて思ってやしない、私たちは職人なんですよ。作曲者のつくった作品を、できるだけ忠実に聴衆の耳に伝える、いわゆる音の再生職人なんです。それに徹しなければいけないと思うんですよ。
(「音楽芸術」1984年4月号のインタビューから)
~KAWADE夢ムック追悼特集「朝比奈隆―最後のマエストロ」(河出書房新社)P135
何だろう、この神がかった音楽は。
何だろう、この抜け切った透明な響きは。
音盤を耳にした時、あまりに静謐で崇高な第2楽章アンダンテ,クワジ・アレグレットにとても感動した。そして、すべてを包み込む壮大な宇宙的規模の終楽章の、強烈でありながら見事に統制され決して喧しくならない冒頭、金管の主題提示に思わず唸った。同時にまたコーダの、どこまでも拡がりゆくエネルギーの解放にも涙した。
交響曲第4番「ロマンティック」がこんな風に聴こえたのは初めてだったものだから、とても驚いた。少なくとも当日ホールの3階席で聴いた時とは確実に印象が違っていた。
そして、たった今、終演後の圧倒的拍手喝采の中に自分がいることを想像し、泣きそうになった。
最晩年の朝比奈人気は異常ともいえるもので、この公演もチケット発売日に電話に前に陣取って何とか確保できたのが3階席。NHKホールのあの巨大な空間が超満員だったことを昨日のように思い出す。
2000年11月の、朝比奈御大とNHK交響楽団による「ロマンティック」交響曲。何度目かの朝比奈の同曲実演だったのだけれど、残念にもその日その時、僕はこの演奏の真価がわからなかった。音が拡散し、その圧倒的な力を封印された敬虔なるブルックナー作品が、遠くの方でまるで他人事のように鳴っていた。
音楽はライブに触れるべきである。実演を聴かない限り、絶対に作品の意味や意義はわかり得ない。確かに場所や空間のメリット、デメリットはあろう。しかしいずれにせよ、それがどんな場所であろうとそこに居合わせないことにはライブならではのハプニングを含めた「一期一会」はない。今となってはすべてが良い思い出だ。
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮NHK交響楽団(2000.11.3&4Live)
職人肌で、とにかく愚直に舞台に立ち続けた結果の脱力と透明感。齢92の御大が生み出す純白のブルックナー。
これを最後に僕は「ロマンティック」交響曲の実演に触れていない。もはやこれを凌ぐ体験はないだろうという気がして。
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阪フィルとのキャニオンの1993年盤の第2楽章アレグレットに痛く感じ入り、よくこのN響盤と比較試聴していました。
最晩年のこのN響盤は、老境の果てを超えたすっきりとした流れが印象的で大阪フィル演奏で頻繁におこる瑕疵が極端に少なく安心して音楽に浸れるものですね。
ノヴァーク本人も認めた聖フローリアンの7番の例を出すまでもなく、ヨーロッパとりわけ
南ドイツやウィーンの音楽愛好家たちの間で、熱狂的な朝比奈ブームがおこってもおかしくないのに、いつも不思議におもっているところです。
ヨーロッパの主力ポストをバレンボイムに振らしたり、ミュンヘンフィルをゲルギエフあたりにまかせている現状を考えるとクラシックならびにブルックナー演奏に対する感覚の退潮感が否めませんね。
ブルックナー生誕200年記念は東京オリンピックの4年後です。
なんとか盛り上げるべく一助となればと非力な自分ながら考えているところです。
>neoros2019様
こんばんは。
>南ドイツやウィーンの音楽愛好家たちの間で、熱狂的な朝比奈ブームがおこってもおかしくないのに、いつも不思議におもっている
>クラシックならびにブルックナー演奏に対する感覚の退潮感が否めません
同感です。本当に残念なことですよね。
>なんとか盛り上げるべく一助となればと非力な自分ながら考えているところです。
真に頼もしいです。僕も非力ながら頑張りたいと思います。
[…] 半年後の2000年11月3日、朝比奈隆は再びNHKホールに登場した。 僕の手もとには、fontecからリリースされた音盤があり、そこでは最晩年の朝比奈の至高のブルックナー演奏が繰り広げられて […]