
望んだわけでもなく、またそうとは知らずにあるクラブに受け入れられたとき、そこにふさわしいものとふさわしくないものについて、何らかの習慣を引き継ぐことになります。調性はまったくふさわしくないものでした。メロディを書くこと、無調のメロディを書くことすら、絶対にタブーでした。周期的なリズム、拍もタブーで、不可能でした。音楽はまえもって決められたものでした・・・新しいときにはうまくいくのですが、すぐに古くなります。いまやタブーは何もありません。すべてが許されています。しかし、ただたんに調性に戻るわけにはいきません。それはとるべき方向ではないのです。戻るのでも、また前衛を続けるのでもないような道を見つけなくてはならないのです。私は牢屋のなかにいるんです。ひとつの壁は前衛で、もうひとつは過去です。だから私は逃げ出したいのです。
(1993年)
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P488
八方塞がりでも必ず一つ「道」はあるものだという。
それがわかっていたのか、リゲティは時間と空間を超え、古今東西あらゆる音楽を吸収したという。
ジェルジ・リゲティ最後の作品の一つであるハンブルク協奏曲。
それが彼の結論なのか、はたまたその先も生きる希望があってさらなる高みを求めようとしていたのか、僕にはわからない。しかしながらそこには、巨匠らしい独自のイディオムによって新たな境地に到達せんとする挑戦があった。
ハンブルク協奏曲において、リゲティは非常に珍しい非調和音スペクトルを実験したのだという。それだけでは意味がよくわからないが、2倍音から16倍音を生成できるナチュラル・ホルン4本を使い、新たなサウンド・スペクトルを創出できたのだという。とにかくその斬新な、不思議な音調を耳にして、体感するしかないのだが、文字通り実験的で革新的な音楽が演奏されていると思う。
ちなみに、ハンブルク協奏曲はバッハのブランデンブルク協奏曲のもじりらしい。
そして、ノット指揮ベルリン・フィルによるレクイエムの無機的な興奮に僕は冷たい歓喜を覚える。
無神論者として育ったリゲティは宗教的な教義を受け入れたことはない。それにもかかわらず、リゲティは60年代半ばに啓示的な影響力を持つ宗教的な傾向の作品を二つ書いた。
歌い手たちがレクイエムのテクストをささやき、つぶやき、語り、叫び、金切り声で伝えるひとつの黒ミサである。
~同上書P491
2019年に聴いたノット指揮東響の実演の阿鼻叫喚に僕は心底感激した。さすがに録音ではそこまでの感動はない。
[…] そして、ジェルジ・リゲティが後に「ハンブルク・コンチェルト」を創作したが、果たしてこれは偶然なのかどうなのか。少なくとも古今東西あらゆるイディオムを吸収したであろうリ […]