
僕が最初に聴き惚れたのはミッシャ・マイスキーによる最初の録音だった。
若きマイスキーの色香溢れる演奏は、豊潤な音色で、それこそ感受性を刺激する名演奏だった。

バッハは厳格で機械的だと思われていることが多いが、そうではない。彼はたえず民俗芸能から着想を得た、感受性豊かな音楽家だ。だから、彼の感覚で演奏しなければならない。理解し、感じることが必要だ。
(パブロ・カザルス、1950年)
~ジャン=ジャック・ブデュ著/細田晴子監修/遠藤ゆかり訳「パブロ・カザルス―奇跡の旋律」(創元社)P79
カザルスの言うとおり、年齢を重ねれば重ねるほどバッハの精神を理解することが容易くなるように思う。そして、余分なものが削がれ、凝縮された小宇宙のこれ以上はない美を発見するのだが、それはまさに聖俗の中庸を貫くバッハの真髄はすべての原点だ。

マイスキーからカザルスを経てロストロポーヴィチへ。
僕の組曲体験の(ある種)プロセスだ。
ロストロポーヴィチは、若い頃からバッハの組曲に畏敬の念を抱き、1952年に第2番と第3番を録音したものの結果に満足できず、準備が整うまで全曲の録音は待つと心に誓っていた。実際には世界中で何度も演奏したが、(先達であるカザルス同様)60歳を超えるまでレコーディングという偉大な事業に着手することはなかった。
彼は、組曲全曲の録音は自分自身のためだけに自費で行うと決めていたという。
ついにレコーディング成ったこの偉大な演奏は、聖俗を超えたところにあり(そのことがようやく理解できた)、無為自然の音楽として今僕の目の前で鳴っている。
フランスはヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂での録音。
余計な思い入れを排し、ただひたすらにバッハの書いた楽譜を音化する求道者の如くの演奏だと言えまいか。
速めのテンポで颯爽と流す第1番ハ長調BWV1007は、今となってはその中に高貴な舞踊があり、ここに真理があることが見える。そしてまた、第4番変ホ長調BWV1010は、ロストロポーヴィチのバッハへの畏敬が刻印され、ただただ襟を正される実直な演奏だ。
極めつけは第5番ハ短調BWV1011だろう。
この、厳しくも内省的な音楽が、深淵を覗き込む深みと、それゆえに大いなる希望のようなものが刻印される演奏はなかなかない。
人生の多くを世間の注目を浴びて過ごした男にとって、バッハを演奏することは私的な瞑想行為だった。しかし、ロストロポーヴィチが信じていたように、それは聴衆に、彼が「芸術家の孤独」と呼んだものを盗み聴きし、垣間見る機会を与えた。

