春一番

bach_matthew_mengelberg.jpg天気は曇り。でも、妙に生暖かくて少しだが確かに春の気配を感じる。身体はいまだに重い。でも、これを抜ければ全てが軽快に進んでいくんだろうという希望が不思議と持てる。

「続ける」ことが苦手だという人は多い。なぜ続かないのか?目先のことばかり考えるから。刹那的な欲望に支配されて目の前のことしか考えられなくなるから。どんなことも山あり谷あり。たとえ今が大変でも未来は必ず明るい。未来に希望さえもてればどんなことでも途中で止めるわけにはいかなくなる。何でも続けることって大切だ。続けることで血となり肉となり、いつの間にかその道のプロと言われるまでに人は成長する。ただし、いつになっても奢ることなかれ。ロベルト・シューマン曰く「勉強に終わりはない」。常に謙虚に、学ぶ姿勢を忘れずに。さすれば必ず人は助けてくれる。

音楽の世界でも長い蜜月期間、そして強固な結びつきをもつ指揮者とオーケストラのコンビが存在していた。古くはヴィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。あるいは、エフゲニー・ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団。もっと身近な例でいうと朝比奈隆と大阪フィルハーモニー交響楽団。いずれも50年に及ぶ、あるいは50年近く緊密な関係を保った、信じられないようなケース。ムラヴィンスキーのチャイコフスキーやショスタコーヴィチ、そして、朝比奈隆のブルックナーやベートーヴェン。現代においてはもはや聴かれなくなった彼ら独自の「音」がそこには存在する。朝比奈先生に限って言えば、少なくとも晩年の十数年はその場の空気をともに感じようと何度会場に足を運んだことか・・・。そして時に空前の名演奏を享受できた喜びをいつまでも忘れまい。朝比奈隆&大阪フィルのコンビが何十年という年月をかけて創り上げた音。それは誰にもマネのできない「継続」の賜物。

オーパス蔵からリリースされている音盤のいくつかが何と期間限定で大幅ディスカウントされている。2枚組であろうと3枚組であろうと何と一律¥1,050!この機会に未所有の名盤を備えるべくいくつか購入した。リパッティ&カラヤンによるシューマンの協奏曲(例のウルトラセブンの最終回に使われたまさにその音源!)、あるいはメンゲルベルク&アムステルダム・コンセルトヘボウによるフランクの交響曲など。しかし、何といってもいまだに賛否両論渦巻く歴史的名盤であるメンゲルベルクの「マタイ受難曲」が「悲愴」(1941年録音)とのカップリングで3枚に収められ、たったの¥1,050で手に入るのだ!!!これはもう奇跡である(大袈裟!)。

J.S.バッハ:マタイ受難曲BWV244(1939.4.2Live)
カール・エルプ(福音史家:テノール)
ヴィレム・ラヴェリ(イエス:バス)
ジョー・ヴィンセント(ソプラノ)、イローナ・ドゥリゴ(アルト)
ルイス・ヴァン・トゥルダー(テノール)、ヘルマン・シャイ(バス)
ヴィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団ほか

かつて柳田邦男氏がエッセー集を出した時、その中にこの「マタイ」について言及した文章があり、その真実を見据えたような筆致に感化され、すぐさまCDショップに走り、当時Philipsから出ていた3枚組の音盤を購入したことを思い出す。しかしながら、まだまだ若かったからか彼のいう「魂が揺さぶられる」ような感覚は正直持てなかった。それでも、心ある音楽愛好家や評論家がこぞって賞賛するものだから僕の感覚が貧しいのだろうと、以降きちんと聴くこともせず、ほとんど封印したまま時の訪れるのを待つという状態であった。そして久しぶりに手にしたオーパス蔵盤での「マタイ」・・・。
すでに言い古されているとは思うが、タルコフスキー監督の「サクリファイス」で一躍有名になったアルトのアリア「憐れんでください、私の神よ」などは、本当に涙なくして聴けない。もちろん宇野功芳氏の絶賛する冒頭の合唱も、だ。文字通り「魂の揺さぶり」を伴う一世一代の超絶的名演奏。齢45を間近にして初めて味わう感覚。悲しみと愛と・・・これはやはり、メンゲルベルクとACOの「継続力」が成し遂げた人間離れしたパフォーマンスである。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。
私も¥1,050で買いましたよ!まだ、既に持っているフィリップス盤との聴き比べはしておりませんが・・・。
柳田邦男氏は刊行されたエッセー集の他、だいぶ前、レコ芸で「マタイ受難曲」の特集をやった時にも、このメンゲルベルク盤について、若くして自ら命を絶たれたご子息とのこの盤の思い出を絡めて、より詳細に述べておられまして、私はその記事のコピーも、大切に保管しております。
それにしてもこの「マタイ」の演奏の重みは、「音楽」の枠を大きく超えているように思います。1939年(世界大恐慌から10年後)の棕櫚の日曜日、(あの『アンネの日記』の悲劇に象徴される、ユダヤ人大量虐殺に突き進む)ナチス・ドイツ侵攻の危機が迫るなかで行われた演奏会の実況録音、「憐れみ給え、わが神よ」など、柳田氏の表現を借りれば、「これ以上切々たる情感を歌い上げることはできないほどに、ゆっくりとうねるように歌われ」、「聴衆の中からはむせび泣きの声が漏れ、演奏者と聴衆との感情の一体化が生じてくるのが伝わって」きます。
そのレコ芸の記事の方では、柳田氏はこの演奏について次のように結論付けられておられます。
・・・・・そのことは、私にあらためてメンゲルベルクの演奏の意味を考えさせた。私が到達した考えはこうだった。楽譜を研究し、作曲家が意図したことを忠実に再現しようとすることは、基本的に重要だが(そういうすばらしい演奏をいくつも聴いている)、演奏家の主体的な解釈もあってしかるべきだろう。その主体的な解釈の幅には通常は限度があるにせよ、特別の状況下においては破格の自由度が許されていいのではないか。音楽の演奏とは、演奏家と聴く者がそれぞれの人生の状況のなかで同一の時間と空間を共有し、魂の響き合いを見出そうとする営みのはずなのだから。もちろん演奏家にはその一瞬に人生と感性と技量を凝縮させる姿勢が求められるのはいうまでもない。メンゲルベルクのあの演奏には、あの日でなければあり得ない特異性が不可避的に生じ(例えばかけがえのない友人を喪った人の弔辞が涙で途切れがちになるのに似て)、その特異性が全人類的凝縮であったゆえに、普遍性を持ち得たのではなかろうか。・・・・・・
キリスト教が苦手な私でも、この「マタイ」は別格です。現在我々人類は、100年に一度といわれる世界的経済危機の真っただ中にいます。1929年に始まった世界大恐慌は、結局悲惨な第二次世界大戦を招いてしまいました。今こそ、このメンゲルベルクの「マタイ」の演奏の歴史的意義と重みを、しっかりと噛みしめたいものですね。
このオーパス蔵盤、チャイコの「悲愴」(41年録音の方)との組み合わせで、以前は反発を感じておりましたが、「悲愴(Pathétique)」も「受難曲(Passion)」も、同じ「パトス(pathos)」が語源であると知ってから、素晴らしい組み合わせであると思うようになりました。
ライナーノーツにも書かれているように、「人間の悲哀、キリストの苦悩、死、復活とつながってひとつのアルバム」になったところが、最高です。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。やっぱり雅之さんも買われたんですね!(笑)柳田邦男氏のレコ芸誌上のエッセー、そういえば僕も記憶あります。しかし、いつ頃の記事だったんでしょう?あらためて読み返してみたいです(レコ芸は1980年から購読しており、全てとってありますが、コピーなどはしていないので何年何月号って教えていただけると助かります)。
>今こそ、このメンゲルベルクの「マタイ」の演奏の歴史的意義と重みを、しっかりと噛みしめたいものですね。
まさに!!
「悲愴」との組み合わせ、最初は僕も違和感をもったのですが、同じくライナーノーツを読んで納得しました。それに、以前雅之さんに教えていただいた『「悲愴(Pathétique)」も「受難曲(Passion)」も、同じ「パトス(pathos)」が語源である』ことを考えると、本当にこれ以上ない組み合わせですね。オーパス蔵万歳!!

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雅之

柳田邦男氏のレコ芸誌上での文章、コピーは持っているのですが、何年何月号かを控えるのを怠っておりまして・・・、たぶん1997年から1998年ごろの記事だと思います。どうしても発見できない場合は、FAX送信いたしますので、ご安心ください(笑)。
さて、せっかく再コメントいたしましたので、最近シューマンのピアノ協奏曲を通じ、『ウルトラセブン』で盛り上がっておられるようなので、コメント番外編として私も岡本さんに熱い思いを語らせてください!(一度語ってみたかった!)
『ウルトトラマン(初代)』、『ウルトラセブン』の、大人の鑑賞にも耐えうる深い世界観を作り出した最大の功労者は、やはり間違いなく傑作の脚本を何本も手がけた、沖縄出身で37歳で亡くなった金城哲夫でしょうね(マンもセブンも最終回は金城の脚本)。ウルトラマンでいえば、「まぼろしの雪山」、ウルトラセブンでは「ノンマルトの使者」などが典型的な例ですが、真の正義とは何か、私たちの信じている正義は本当に正義なのか?ということを真正面から問うた意義は大きく、アメリカのイラクとの戦争でもわかるように現代人にとって今日でも重大なテーマであり、子供番組の枠を超えた偉大な作品になった理由のひとつだと思います。監督では特異なアングルや接写で不思議な映像空間を創りだした、故 実相寺昭雄氏でしょう(彼はクラシック音楽に造詣が深かったですね。朝比奈先生のライヴを撮ったりしてましたよね、確か新日フィルとのブルックナーの5番も撮ったはずなんですが、どうなったんでしょう?)。
ところで、平成になって登場した『ウルトラマンティガ』(1996~97 制作 円谷プロダクション・毎日放送)は、私も息子が観るのを口実に家内共々欠かさず観ておりましたが、かつてそうした『マン』や『セブン』に痺れた我々の世代が、その思いの丈をすべてぶつけて制作した傑作になりました。
女性ファンも多いですし、『ウルトラセブン』のオマージュとしての意味合いも強く、同じ波長を感じさせる部分が多いため、DVDをぜひ一度ご覧になることをおすすめしたいので、また長くなりますが『地球はウルトラマンの星』(切通理作著 ソニー・マガジンズ 2000年)から、その最終話のサワリと見どころを少しご紹介いたします。
・・・・・・そして出撃するスノーホワイト。前の席にレナ隊員(吉本多香美)、後の席にダイゴ隊員(長野博)。
「もっと高く・・・・・」
成層圏をぎりぎりまで上昇したレナ機は、これ以上高く上げたら危険なので引き返せと指令を受ける。
成層圏を上って行く中、レナ隊員はダイゴに問いかける。
「ウルトラマンは、独りで闘わなきゃいけない理由でもあるわけ?」
もはやダイゴの「僕はティガなんだ」という告白も、レナの「あなたの正体を知っている」という一言もここでは必要ない。
この回は、地球の終末を夢で見たダイゴ隊員が汗ぐっしょりになって起き上がるシーンから始まる。それはかつて『ウルトラセブン』の最終回前後編の冒頭、ダン隊員が汗びっしょりで起き上がるシーンを思わせる。
昔と同じに、ヒーローは孤独に悩むのか、と見ている側は思う。
かつてのダンとアンヌの別離は、ウルトラ世代の印象にいつまでも残った。その時に出来なかったことを、ウルトラマンで育った作者が出来る時代になったのだ。
ただ自分の体をいたわることしか出来ないアンヌに、ダンは告白する。
「アンヌ、僕は人間じゃないんだ。M78星雲から来た宇宙人なんだ」
その瞬間、画面はシルエットになり、二人向き合いの構図で、アンヌの息を呑む様が見てとれる。
だがアンヌはすぐ笑顔になり、「宇宙人だろうが地球人だろうが、ダンはダンじゃない」と答える。それは彼女の精一杯の返答だ。
けれども、そう言われてしまうと、ダンは自分がセブンであることを内側に閉じ込めてしまうしかない。「待って」とすがるアンヌを突き飛ばして変身せざるを得なかったのだ。その孤独な姿は、ウルトラ世代の心のどこかに傷を残した。
今度はそれを超えなければならない。孤独ではいけない。人間と精霊との共同作業がダイゴとウルトラマンの関係なら、そのことをダイゴが抱え込みそうになった時には、レナが一緒にいるのだ。
「私、今、後ろ見れない。だから、いいよ・・・・・・」
ダイゴは無言でスパークレンスを取り出す。スノーホワイト自体が発光し、いつの間にかウルトラマンティガの両手に抱え持たれながら飛行している。
レナとともにゾイガーを倒すティガは、闇の怪獣ガタノゾーアとの最終決戦に突入していく。
最終決戦に勝利した時、ウルトラマンの巨体は砂になって崩れてしまう。
ダイゴ隊員はまた普通の人間に戻った。そこに、ヒロインのレナ隊員が戻ってきて、ガシっと抱き合う。・・・・・・
本当に『セブン』以来の感動的なシーンで涙が出ました。なお、この『ティガ』のシリーズには、前述の故 実相寺昭雄監督の作品も含まれており、ベリーニの『夢遊病の女』のアリアや、プッチーニの『蝶々夫人』の「愛の二重奏」が効果的に使われ、映像も実に『マン』や『セブン』での実相寺監督作品を髣髴とさせる傑作に仕上がっていました。また金城哲夫とともに『Q』、『マン』や『セブン』の脚本を手がけた同じ沖縄出身の上原正三氏脚本の傑作も含まれています(これについて語ると、また長くなる・・・笑)。
とにかく『ティガ』は新旧ウルトラ世代の思いが結集した、大人の鑑賞に充分すぎるほど堪える偉大な傑作です!
なお、量子力学をテーマのひとつとした『ウルトラマンガイア』(1998~99 制作 円谷プロダクション・毎日放送)は、個人的には『ティガ』よりもっと好きな作品です。メカも含め、とにかくすべてがカッコいいです。この作品にも『マン』や『セブン』の精神が息づいています。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。ご丁寧な回答ありがとうございます。「レコ芸」に関しては調べてみます。
ところで、雅之さんの「ウルトラシリーズ」論、これだけで一冊の本が出来上がりそうですね(笑)。畏れ入ります。
僕は少なくとも最近のものは観ておりませんので、このコメントを見て「ティガ」なんかは相当面白いんだろうなと興味が湧いてしまいました。何とかDVDなどを手に入れて観てみたいものです。
「まぼろしの雪山」と「ノンマルトの使者」!!!
これらはほんとに普遍的な名作ですね。人間のエゴを直視し警告を送る。そして、人間こそがある意味「悪」ではないかという視点。見事です。
>確か新日フィルとのブルックナーの5番も撮ったはずなんですが
実相寺監督による90年代前半の映像はまだ公開されてないのもありますよね。ブルックナー選集の実演も僕は聴いておりますが、第5の時にカメラが回っていたかどうかは覚えてないですねぇ。ただ、同じツィクルスのときの第7は一部市販されていますから可能性ありますが・・・。

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アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » 身も心もとろけるほどの・・・

[…] 何と素敵なマーラー!テンポの伸縮は半端でなく、弦の甘美なポルタメントも健在で、何より1939年のライブ録音とは到底信じられない重厚でクリアな音が僕の脳天を直撃する。かれこれ30年近く前に購入し、当時はそこそこに聴いていたもののCDの出現以来おそらく一度も耳にしなかっただろうメンゲルベルクのアナログ・レコードを2度繰り返し聴いた。例の有名な「マタイ受難曲」といい、このマーラーといい、戦時中の大変な時期にこういう音楽を体感できたアムステルダムの音楽愛好家たちが真底羨ましい。終演後の壮大な拍手もしっかり収録されており、本当に貴重な記録であると思う。 […]

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