かくあるべし

beethoven_12_busch.jpg世の中どこでも「かくあるべし」という理想のようなものはあるだろうが、実際には「あらねばならない」姿などなく、一つの答など存在しないように思う。
ただ、人は誰もが人と比べるという癖を持っている(厳密には教育により持たされる)。「隣の芝生は青く見える」という諺どおり、どうしても他と比較して自己を卑下し、その結果「軸」がぶれたり、迷走したりしてしまう。
生きていく上で「環境」はとても重要な要素だ。江川三郎先生曰く「オーディオは環境に依存する」ということだが、人間などもっと環境に左右される。世の中、多い方が正しいというわけではないのだが、多数派の意見は正しいように思えて、流されてしまい、後悔するという体験が誰にでもあるだろう。確固とした意思を持ったとしても、否定的な環境にいればその意思がガタガタとあっという間に崩れ落ちるということも多々ある。

独立独歩で仕事をしている人間から、「安定」を求めていると聞いて、果たして「安定」というものが本当にあるのかと問い返した。未来のことはわからない。もしあるとするなら「今を一生懸命に生きること」がすなわち「安定」か・・・。

弦楽四重奏曲づいている。戦前の名カルテット、ブッシュ四重奏団のSP復刻盤を棚の奥から採り出す。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第12番変ホ長調作品127
ブッシュ四重奏団(1936.10-11録音)

意識覚醒の調性(勝手に僕がそう名づけているのだが)をもつ「後期弦楽四重奏曲群」の入口に屹立する傑作。第9交響曲を完成し、「ミサ・ソレムニス」も世に送り、音楽家として絶頂を極めた楽聖が、残る数年を神と直接交信するが如く、自らの内面に語りかけながら筆を進めた室内楽曲、そしてピアノ・ソナタは、もはや人間技とは思えない。この作品127の第2楽章「アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・カンタービレ」の恍惚とした、かといって決して官能的でない「一線を超えた」美しさは、ハイドンにもモーツァルトにもなかった深遠なる精神性の顕れである。

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135
ブッシュ四重奏団(1933.11録音)

第3楽章「レント・アッサイ・カンタービレ・エ・トランクイロ」-昔日の面影を思い起こさせる涙を誘う甘美なポルタメント!時代遅れと言われようが、死を目前にしたベートーヴェンの心のうちの透明さをこれほどまでに切実に表現した感動的な演奏は稀かもしれない。そして、第4楽章「グラーヴェ~アレグロ」-「ようやくついた決心」という標題を持つ意味深な楽章。自筆譜冒頭には「Muss es sein?(そうでなければならぬか?)」、「Es muss sein.(そうでなければならぬ)」と、これまた哲学的なフレーズが書かれていることで有名。この解釈は古くから様々議論されているのだが、死人に口な
し、真意は謎のままである。

※一昨日、「『やらねばならぬ』と決意・決心し、背水の陣を敷かないことには物事は始まらない。」と書いたことをただふと思い出した。

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