ベーム指揮ベルリン・フィルのモーツァルト「魔笛」K.620(1964.6録音)を聴いて思ふ

この頃、めっきりモーツァルトの虜になっている。
かつてない心境の変化でもないが、彼の音楽がようやくわかってきた気がするのである。

愛すべきモーツァルト作品の第一が「魔笛」。
シカネーダーとの共作である物語の奥深さもさることながら、森羅万象を象徴する、彼の音楽人生の総括ともいえるその音楽に拝跪する。光と闇の統一、母性と父性の一体。そのことを悟ったモーツァルトに、もはやこの世で生きる試練は不要だった。

モーリス・ベジャール率いる二十世紀バレエ団が、1982年の来日時に披露したのがバレエ版「魔笛」。おそらくその舞台はバレエ・ファンのみならず音楽愛好家にも相当な衝撃を与えたのだろうと思う。残念ながら、僕はその時の公演に触れることができず、80年代後半にようやくベジャール・バレエに開眼してからというもの、ベジャールの「魔笛」を観ることがずっと念願だった(ついでに「エロス・タナトス」も)。

当時の公演を評して、河原晶子は次のように書いている。

ベジャールの「魔笛」の舞台は、後方にしつらえた扉とそれを囲む一段高いもうひとつの除けば、あとはまったくの“何もない空間”である。そしてその空間の中にはたったひとつの大きな星が白く描かれている。「すべての宇宙の象徴である星に刻まれている。錬金術師の星があり、ファウストの星があり、そしてまたフリーメーソンの星がある。星は人間の性の象徴でもある」とベジャールはプログラムで述べているが、舞台の幕開きにはその星の中にうつぶせに伏せた弁者だけがみえ、この瞬間から舞台は古代のエジプトの神殿という原作の場所を越えて、ひとつの新しい宇宙の誕生さながらにみえてくるのである。
~「レコード芸術」1982年12月号(音楽之友社)

こんな文章を目の当たりにして、ベジャールの「魔笛」を観たいと思わない人はいないだろう。
そして同時に、ベジャールが残した「魔笛」演出に際しての興味深いノートを読み、それがまた僕の想いを一層刺激した。

私の考えでは、昼と夜の間には、不連続はあっても対立の論理はない。夜が明けてから日が沈むまでに断絶はなく、あるのは変容である。生命の運動も、諸断絶から成る過程においてではなく、循環する過程の中でこそ捉えられるのである。ザラストロはおそらく夜の女王をそっくり嚥み込んでしまうのであって、彼女を破壊するのではない。それは、むしろある種の統合である。夜を欠いては成立しない一日24時間の恒久的なサイクルの中で事物がその本来の位置へ回帰することだとも言えよう。事実、夜の女王の本当の過ちは、自分を昼から切り離そうとする点にある。彼女は、宇宙空間そのものが有している数多の律動の中の、自分は一つなのだということに理解を示さないのである。
全体的統一—一致とか無矛盾とかいうのではない—へ向かってしかものは成就することがないのである。
(モーリス・ベジャール/岡川友久訳「魔笛」演出ノート)
「モーツァルト事典」(冬樹社)P268-269

戦いを続ける世界への警告の如く、1791年当時からすでにモーツァルトが、彼の芸術を通じて「そうではないこと」を発信しようとしていたことが、ベジャールの言葉を借りてあらためて腑に落ちる。

・モーツァルト:歌劇「魔笛」K.620
フランツ・クラス(ザラストロ、バス)
ロバータ・ピータース(夜の女王、ソプラノ)
イヴリン・リアー(パミーナ、ソプラノ)
フリッツ・ヴンダーリヒ(タミーノ、テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(パパゲーノ、バリトン)
リーザ・オットー(パパゲーナ、ソプラノ)
ハンス・ホッター(弁者、バス)
フリードリヒ・レンツ(モノスタートス、テノール)
ヒルデガルト・ヒレブレヒト(第一の侍女、ソプラノ)
ツヴェトゥカ・アーリン(第二の侍女、ソプラノ)
ジークリンデ・ヴァーグナー(第三の侍女、メゾソプラノ)
ジェームズ・キング(第一の武装した男、テノール)
マルッティ・タルヴェラ(第二の武装した男、バス)
RIAS室内合唱団
カール・ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1964.6.18-25録音)
・モーツァルト:歌劇「劇場支配人」K.486
レリ・グリスト(マダム・ヘルツ、ソプラノ)
アーリーン・オジェー(マドモアゼル・ジルバークラング、ソプラノ)
ペーター・シュライアー(ムッシュー・フォーゲルザンク、テノール)
クルト・モル(ブッフ、バス)
カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1973.9録音)

「魔笛」の音盤はこれまで多数リリースされているが、分けても円熟期のカール・ベームがベルリン・フィルと録音したものが今でも最上のものだと僕は思う(今回のベジャール・バレエ団の公演でもこの音源が使用される)。落ち着いた重厚な音とベルリン・フィルの一糸乱れぬ機能美、そして、何よりヴンダーリヒのタミーノはもとより、パパゲーノをフィッシャー=ディースカウが歌う奇蹟。もちろんフランツ・クラスのザラストロも、ロバータ・ピータースの夜の女王も素晴らしい、またモーツァルトを愛するベームの音楽作りが絶品。

ザラストロは最後に夜の女王を殺すとか滅ぼすとか、こうした言い方には私は不賛成である。というのも、女王とて己の役目を担っているからで、ただ彼女のいけないのは、我こそ真理なりと主張し、昼に表象される、彼女にとっての他性、これをも自ら牛耳ろうとすることである。一方、ザラストロの了解では、現実は自分と彼女の間に、自分と彼女と共に、(「魔笛」全体を貫く四大元素のシンボリズムの中の)火と水の結合、男女の結合を表わすタミーノとパミーナの二人のうちに存するものである。無知は、要するに、夜の女王の側に加担することでも、ザラストロの側に加担することでもない。二つの部分がなくてはならない、しかも一方が他方に是非とも打勝たなくてはならないとすることである。逆に英知とは、これら二つの部分の和解ということよりも何よりも、そもそも二つの部分という観念自体が幻想にすぎないと理解することである。女王が無知なのは、自分が一部でありながら全てだと思うからである。ところが、実際は全体とは二つの部分の合体なのである。
~同上書P269-270

ベジャールは、中庸という精神のこと、そしてこの世界が二元の中にあることを知った上で「魔笛」の演出を目論んだのだということがこれではっきりする。あとは、実際に舞台に触れることだ。
モーリス・ベジャール死して10年。来週、ようやく僕の願いが叶う。

ちなみに、レリ・グリスト、アーリン・オジェー、ペーター・シュライアー、クルト・モルが参画する「劇場支配人」も名演奏。長くなりすぎるのでこちらはまた別の機会にでも。

 

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