徳は、また、いつも無知の友であるとは限りません。なぜなら、きわめて無知ないくたの民族が、きわめて不徳であったからです。無知は、善にとっても悪にとっても障害なのではありません。それは、人間の自然状態にすぎません。
~ルソー著/前田新次郎訳「学問芸術論」(岩波文庫)P133
人生は、自分自身との闘いである。
アメリカの詩人、エドワード・エスリン・カミングスは次のように言った。
あなたをみんなと同じ人間にしてしまおうと日夜励んでいる世の中で、自分以外の誰にもなるまいとするのは人間のでき得る闘争の中で最も厳しい闘いだ。そして、その闘いをやめてはならない。
一方で、人生は、他者との協業でもある。
いかに自然体で他者とつながることができるかどうか。
つまり、いずれにせよ根源とつながることができていればすべては調和に向かうということだ。
10年前にイザベル・ファウストの実演を聴いたとき、僕は恍惚とした。
不純物の一切抜けた、真っ透明なバッハがそこでは奏された。奏されたのではなく、まるで天から降ろされたかのような瞬間だった。無伴奏ソナタとパルティータが全曲披露されたが、いずれもが見事な出来で、そこに浸る幸福なる時間はあっという間に過ぎ去って行った。
当時リリースされていた録音はもちろん素晴らしい。
しかし、バッハが真に自己と向き合って、同時に天とつながって創り出した音楽は、可能ならそのときその場で享受することがベストだ。たった一挺の楽器が繰り出す、宇宙の根源とつながる音楽が時空を超え現出する。そしてそれは、バッハが自分自身と向き合い、闘う様子を表わす音楽なのだということがわかる。
ファウストのバッハは、リサイタルのキャッチコピー「立ちのぼる、透徹した美の世界」そのままに厳しくも慈しみに満ちていた。
パルティータ第2番ニ短調BWV1004の、外へと拡がる音宇宙こそバッハの真髄だが、ここでのファウストの演奏は、内へと語り掛けるもの。しかし、それがまたバッハの真の闘争を示唆していて、余計に素晴らしい。かつてリサイタルで聴いたパルティータ第2番の記憶を喚起し、髣髴とさせる神のみ業たる音楽の妙。
アルバムの進行とともに、音楽はますます自然体に近づいて行く。
ソナタ第3番ハ長調BWV1005は、ヴァイオリニストの存在を消し去ってしまうような大らかさと自然さ。
第4楽章アレグロ・アッサイの推進力は、バッハ渾身の音を外の世界に攪拌する。
続く、パルティータ第3番ホ長調BWV1006の憂愁。優美な音楽のうちに潜む悲哀を見事に描くイザベル・ファウストのヴァイオリン(有名な第3曲ガヴォットさえ何だか切ない)。
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