それこそ「音楽は詩と太古に結合しており、詩をもって音楽は人々に感動を与えるのだ」とするニーチェの思想に対応するかのように、リヒャルト・シュトラウスは世紀を境に交響詩の世界から足を洗い、オペラの世界に本格的に足を踏み入れる。その狼煙となるのが20世紀初頭の問題作「サロメ」である。
聖書を題材とし、オスカー・ワイルドによって生み出された世紀末デカダンの象徴たるこの倒錯劇は、色鮮やかな数多の交響詩を創造してきていたリヒャルト・シュトラウスの手を借り、初演当時賛否両論一世を風靡する傑作としてこの世界に姿を現した。
リヒャルト・シュトラウスは革新的で策略家ではあるが、こと音楽については実に謙虚かつ保守的な側面も有していたよう。
彼は「私のオペラ初演の思い出」の中で言う。
「全体的に言えるのは、ひじょうに興奮した音楽と反対に、演技はすっきりとしていなければならない」と。
そう、すべては音楽によって語られるのだ。
彼女の言うことは実際正しい(もちろん本来の意味とは違っているが)。というのはのちの上演では、上演では、安キャバレーのダンスと見まがうようなものや、ヨハナーンの頭を宙に掲げて踊りまくるようなものが跋扈したからである。これはしばしばまともとは言い難く、趣味の限界を超えるものだった。一度東洋に旅したことのある人なら、彼の地の女性がいかに慎み深いか知っているだろう。それを考えれば、清らかな処女であり、王女でもあるサロメの踊りは、簡単で高貴なものでしかあり得ないのだ。彼女は、神の奇蹟を得ることに失敗する作品のクライマックスで、そのような恐怖と驚愕ではなく、同情を引き起こすべきなのである(ところでここで言っておく必要があるのは、次のことである。ヨハナーン処刑の箇所のコントラバスの高い変ロの音は、殺される人間の叫び声ではない。それは首が運ばれてくるのをいらいらと待ち望んでいるサロメ自身の内心のため息である)。
~日本リヒャルト・シュトラウス協会編「リヒャルト・シュトラウスの『実像』」(音楽之友社)P143
典雅で優しく、高貴でふくよかな、古き良きウィーンの「サロメ」。
クレメンス・クラウスが最晩年に録音した1幕の音楽劇は、どろどろした官能性と倒錯性は後方に追いやられているもののさすがにシュトラウスの盟友だけあり素晴らしい。
特に、7つのヴェールの踊りのいかにも柔和で温かい音楽の再生に、妖艶さと言うよりは16歳の処女サロメの清らかな美しさを思い、その後のクライマックスに向けての決して激情的に鳴り過ぎない音楽運びに、クラウスの人としての優しさと音楽家としての気品を垣間見る。
R.シュトラウス:楽劇「サロメ」作品54
クリステル・ゴルツ(サロメ、ソプラノ)
ハンス・ブラウン(ヨカナーン、バス)
マルガレータ・ケニー(ヘロディアス、メゾソプラノ)
ユリウス・パツァーク(ヘロデ、テノール)
アントン・デルモータ(ナラボート、テノール)
エルゼ・シュルホフ(ヘロディアスの小姓、アルト)
クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.3録音)
ああ!なぜ私を見なかったの、ヨカナーン?
お前は目に、自分の神を見ようとする者の目かくしをした。
いいわ!お前は自分の神を見た、ヨカナーン、でも、この私をいちども見なかったのね。
もし私を見ていたら、私を愛したはずよ!
私はお前の美しさに渇れている。お前のからだに飢えている。
酒もりんごも、私の欲情をしずめることはできないわ。
私はどうしたらいいの、ヨカナーン?
高潮も、津波も、この欲望の火を消せない。
(内垣啓一訳)
愛と死はひとつであることをサロメは暗に訴える。
その一方で、人間のエゴがすべてを分断することも示唆するのだ。
ラストの暗澹たる恐怖を描く音楽にどこか明るい聖なる響きを感ずるのは僕だけか・・・。
実に美しく、そして真に有機的な音。
リヒャルト・シュトラウス66回目の命日に。
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