クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第3番ヘ長調作品90ほか(1955.7.26Live)

ハンス・クナッパーツブッシュの十八番、ブラームスの交響曲第3番ヘ長調作品90。
ザルツブルク音楽祭でのフルトヴェングラー追悼のそれは(厳密に捧げられたのは悲劇的序曲に対してだが、当然コンサート全体に対してその思いは共振していただろう)、いかにもクナッパーツブッシュという音楽が鳴り響くが、劇性や激しさ、そして怪物的熱情は他の演奏の方に分があるとはいえ、この作品の内側から湧き上がる悲劇性を明確に表出した、故人を悼む、文字通りの大演奏は、これが随一だと言えるのではないか。久しぶりに耳にして僕はそう感じた。そして、その音の洪水にあらためて浸った。

クナッパーツブッシュ指揮シュターツカペレ・ドレスデン ブラームス 交響曲第2番(1959.11.27Live)ほか クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルのブラームス第3番ほか(1955.7.26Live)を聴いて思ふ クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルのブラームス第3番ほか(1955.7.26Live)を聴いて思ふ クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィルのブラームスを聴いて思ふ クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィルのブラームスを聴いて思ふ

1955年7月26日、ハンス・クナッパーツブッシュは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共に、ザルツブルク音楽祭初のオーケストラ・コンサートを「ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの追悼」として捧げました。
フルトヴェングラーは、6ヶ月前の1954年11月30日に68歳で亡くなっていました。その年のザルツブルク音楽祭は、前日25日に、フルトヴェングラーが友人のオスカー・ココシュカに舞台美術を依頼し、指揮する予定だった歌劇「魔笛」の上演で開幕しました。指揮は43歳のゲオルク・ショルティが引き継ぎ、ザルツブルクに新たな時代の到来を示しました。フルトヴェングラーよりわずか2歳年下のハンス・クナッパーツブッシュも、この日、ザルツブルク音楽祭で最後の指揮をしました。彼は1929年以来、ザルツブルク音楽祭に客演指揮者として頻繁に参加していました。クナッパーツブッシュとザルツブルク音楽祭との、それまで緊密で何の問題もない関係が、なぜこの時期に早々と終焉を迎えたのか、その理由は記録には残っていません。もちろんウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とはまったく関係なかったことは明らかです。なぜなら、演奏家と聴衆の双方から「クナ」と呼ばれていた彼は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が特に好んでいた少数の指揮者集団に属していたからです。そして、クナッパーツブッシュは、その後も(1965年10月の逝去の直前まで)毎年ウィーンでオーケストラの定期演奏会を指揮し、ウィーン芸術週間でも忘れ難い演奏を披露しました。ただし、バイロイトでの夏の活動のため彼がザルツブルクで歌劇を振る機会を少なくした可能性があり、また1957年にウィーン国立歌劇場の芸術監督に加え、ザルツブルク音楽祭の芸術監督も兼任したヘルベルト・フォン・カラヤンとの関係が悪化していた可能性もあることは否めず、この時期、クナッパーツブッシュはウィーン国立歌劇場で指揮をすることはありませんでした。

政治的な問題、あるいは、嫉妬など感情を伴う、人間関係の問題、どの世界にもある確執に、クナッパーツブッシュも巻き込まれていたのだと思う。実際、純粋な音楽家であったクナにとってはそんなことなどどうでも良いことだった。

いずれにせよ1955年7月のオール・ブラームス・プロによる演奏会の記録(本盤に収録されている2曲の間に、クリフォード・カーゾンを独奏に迎えたピアノ協奏曲第2番変ロ長調を演奏)は、ザルツブルク音楽祭での最後の録音であるだけでなく、技術的に極めて欠陥のある1949年のブルックナー演奏の録音を除けば、音楽祭の歴史においてハンス・クナッパーツブッシュが果たした重要な役割を示す唯一の証拠といえます。長年にわたり、ウィーンとザルツブルク音楽祭の双方で最も重要な指揮者の一人であった彼が、指導的立場を主張することがなかったのは、まさにクナッパーツブッシュの性格を表すものなのかもしれません。1935年、ナチスによってミュンヘン歌劇場の音楽監督の座から引きずり下ろされた彼は、二度と公職に就くことはありませんでした。彼にとっては音楽のみが重要だったのです。

真に素晴らしいザルツブルク音楽祭の記録。
おそらくほとんどぶっつけ本番であろう演奏の生々しさ、そしてクナッパーツブッシュらしい、いかにも大げさな(?)、大見得を切ったような巨大な表現は、ギリギリ、ブラームスの器を超える限界点で踏み止まっていることが素晴らしい。

ブラームス:
・悲劇的序曲作品81(ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを偲んで)
・交響曲第3番ヘ長調作品90
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1955.7.26Live)

「悲劇的序曲」の、ブラームスの枠を超えた大らかさ。
悲しみというより、そこにあるのはより楽観的な、ひたすら音楽的な音楽だ。
(「偲んで」などというのは、言葉ばかりなのかもしれぬ)
(クナの中のそんな思いは確かに吹き飛んで、すっかりなかったものだと思われる)
淡々と表現される中に感じられるブラームスの喜びは、聴衆にも大きな歓喜をもたらしたのではないか、この演奏を聴いて、そんなことを僕は思った。

クナッパーツブッシュが再びザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したのは、1947年になってからでしたが、その後はほぼ毎年オーケストラ・コンサートを指揮し、中で、ブルックナーの交響曲がプログラムを席巻、1954年には交響曲第8番の忘れられない解釈でクライマックスを迎えました。そして、1955年の、彼の最後のザルツブルク音楽祭のプログラムはヨハネス・ブラームスの作品で構成されたものでした。
ハンス・クナッパーツブッシュは常にブラームスに強い親近感を抱いていました。北ドイツ生まれの作曲家の重厚さと厳格さがおそらく彼自身の気質にあっていたのだと思われます。
この録音は、紛れもないクナッパーツブッシュの方法を示しており、それは、感情的な陳腐さや感傷に傾くことのない、ブラームスの音楽に内在する暗い情熱に対する、彼の自信に満ちた解釈を表しています。指揮はとても主観的であり、非常に遅いテンポは独特の個性の表現ですが、そこには明確な形式と規律への意志がありました。クナッパーツブッシュは、オーケストラを集中させ、オーケストラに劇的なクライマックスを築かせる方法を知っていたのです。おそらくそれは、彼が最小限の身振りでオーケストラとコミュニケーションをとった結果だと思います。

(ゴットフリート・クラウス)

オーケストラの主体性を生かし、いざというときにのみ(ある種の)スパイスを効かせるという術でもって、クナはリハーサルなしで最高の音楽を生み出すのである。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む