第2楽章アンダンテ・モデラート。
宙をつかむような、言葉に置換えがたい表現。フレージングといい、テンポといい、ダイナミクスといい、すべてが独特の感性の下再生されたものであることがわかる。チェリビダッケはそれを、あくまで作曲家のイメージの現象化であると断言するのだが。
1974年のクラウス・ランゲによるチェリビダッケへのインタビュー。
「ということはつまり、あなたにとってオーケストラの練習は、あなたが持っているスコアの明確なイメージを実現することなのですね?」という質問に対する指揮者の回答の興味深さ。
作曲した人のイメージです。私のではない。自分のイメージを持つなど許されない。私に資質があるとしたら、というより解釈者に資質があるとしたら、それは創造性豊かな人間の想像力を動かしたその瞬間、瞬間を感じとることでしょう。
~クラウス・ラング著/齋藤純一郎・カールステン井口俊子訳「チェリビダッケとフルトヴェングラー」(音楽之友社)P342
ほとんど禅問答のようなやりとりが延々と続くが、要は指揮者が言いたいことは、自分の再生する音楽に「私」はないということ(なのだと思う)。
しかしながら、少なくとも録音を聴く限りにおいて、その音楽は実にユニーク(私的)だ。
悪く言えば、不要に粘る恣意性が鼻につく、そんな人工性が感じられるのである。
チェリビダッケはかくも言う。
フルトヴェングラーは素晴らしい個性の持ち主でした。しかし、彼が私たちに残してくれた音楽はどうか?我々に受け継げるものは一小節だってありゃしない。しかし、音楽をそこまで個人的に理解してもよいのだろうか?そこに、個々の人間を超越するものはないのだろうか?音楽は、あなた自身とか、私とか、作曲家も、そういう個人を超越するものじゃないでしょうか?私はそう思います。モーツァルトのアンダンテのもつ悲哀さはあなたのものでも、私のものでもない。世界苦というわけでもない。それを越えるものなのです。
~同上書P352
確かに音楽は個人を超越するものだろう。
それでも、終楽章アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショナートは明らかにフルトヴェングラーの影響を受けることを思うと、この言葉自体がナンセンス。結局は真理を目に見える(耳に聴こえる)ようにと意図したことがチェリビダッケの弱点にもなったのだろうと僕は思う。
ブラームス:
・交響曲第4番ホ短調作品98
セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団(19743.3.23Live)
個を越える表現というのなら、シューリヒトがバイエルン放送響を指揮した録音の方がより一層。あるいは、ワルター晩年のコロンビア響とのそれも最右翼。
とはいえ、音楽の沈潜と爆発の対比はフルトヴェングラー以上かも。
おそらく、実演に触れていたら卒倒、心底感動していたのだろうと想像する。
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チェリビダッケの実演を録音し商品化したCDは「FAKE」そのものだと思います。
いろんな意味で。
>雅之様
まさに!!!