アモイヤル独奏ブーレーズ指揮ロンドン響のシェーンベルク(1984録音)を聴いて思ふ

schoenberg_amoyal_serkin_boulez675聴覚というものも成長、成熟するのだと思う。
耳に馴染まなかった音楽も年齢を重ねるごとに違和感がなくなる。難しいと思っていたものが、突然理解できるようになることがどうにも不思議。
例えば、アルノルト・シェーンベルクの十二音技法による作品群。
30年前は、否、少なくとも10年前ですら僕は、あの難解で決して美しいとは思えないな音楽に対してある種の嫌悪感を抱いていた。しかしながら、いつの間にかそれを超えている自分がいる。本当に面白い。

過去は固定したものでも不変のものでもない。過去の事実は続く世代毎に再発見され、新しい時代の趣味や先入主に照してその価値が再評価され、その意味が再定義される。同じドキュメント、同じ記念碑、そして同じ芸術作品から各時代毎にそれなりの中世を、その時代なりの中国を、その時代の特許と版権を取ったギリシャを創り出す。
オルダス・ハクスリー著/河村錠一郎訳「知覚の扉」(平凡社)P136

あくまで美術作品に対してのハクスリーの言であるが、同じことは音楽作品についてもいえる。やはりすべては時間と空間を超えるのだ。

ピエール・アモイヤル独奏によるシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲が美しい。十二音技法によるまさしくシェーンベルクの自画像の如し。
とりわけ第2楽章アンダンテ・グラツィオーソに聴く、混沌の中にある調和的幻想。それこそ音階を平等に扱おうとした作曲者の本懐。おそらくブーレーズが描いた設計図だろうが、怜悧な枠組み中に聴こえるヴァイオリンの優美さに感無量。
そして、終楽章アレグロにある暗黒の熱狂に思わず興奮、気のせいかコーダにブルッフの協奏曲の木魂が僕には聴こえる。それがまた粋。シェーンベルクは天才だ。

シェーンベルク:
・ヴァイオリン協奏曲作品36(1984録音)
・ピアノ協奏曲作品42(1985録音)
ピエール・アモイヤル(ヴァイオリン)
ピーター・ゼルキン(ピアノ)
ピエール・ブーレーズ指揮ロンドン交響楽団

一層素晴らしいのはピーター・ゼルキン独奏によるピアノ協奏曲。ここでも凝視ならぬ耳を凝らすとそこかしこに美しい旋律が聴こえる。とりわけ第3部アダージョの静けさ!
第二次大戦中に書かれたこの作品は十二音音楽の普遍性を見事に表すかのよう。

両大戦間の時期に、現代音楽は対立する二大勢力に分派したかのような観を呈した。二大勢力とは、「新古典主義」と「十二音主義」、すなわちストラヴィンスキー派とシェーンベルク派である。しかしやがて第二次世界大戦が終り、さらにシェーンベルクが亡くなると、徐々に変化が起りはじめ、ストラヴィンスキーまでもが十二音作曲家の仲間入りをするようになっていった。そして彼以外にも、大勢の若手作曲家たちがこの手法を受け入れることになった。
E・ソーズマン著/松前紀男・秋岡陽訳「音楽史シリーズ 20世紀の音楽」(東海大学出版会)P187

勝ち負けではないが、ここにシェーンベルクの先見を知る。
あるいはまた、高橋悠治と丸谷才一の1974年の対談をひもとくと最後に次のような言葉に出会う。

丸谷 だから、西洋の文学と日本の文学は違うといえば、西洋の文学を読まなくてもいい。結局戦前の日本の文士が持っていた教養は、割に骨董いじりというのが多いね。
高橋 自分の分野では古いものはいらないと言い張ったけれども、やはり古いものがないと困るような気になって、ほかの分野で古物をいじるということなんだな。
丸谷 石川淳先生いわく、分子は骨董いじりと女の子にもてるのは禁物である、と。(笑)女の子の話はさておいて言えば、骨董いじりということは、つまり昔の文学を捨てるということだよね。やはり昔の文学に関心を持つことが、一番具体的な文学の学習じゃないかしらね。
小沼純一編「高橋悠治 対談選」(ちくま学芸文庫)P252

丸谷才一さんのおっしゃる言葉は文学に限らずやはり音楽にも有効だろう。
古きを温ねて、そこから新しい方法を知ったシェーンベルクの天才。
継続は力なり、僕の耳も随分深化したものだ。

 

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2 COMMENTS

雅之

>継続は力なり、僕の耳も随分深化したものだ。

経験を重ねられ、音楽との多様な接し方に磨きをかけられたんですね。見習いたいものです。

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