
ブルーノ・ワルター最晩年のワーグナー。
言葉で表現するのが難しいのだが、ここには余分なものすべてを削ぎ落した、老練の極みといえる、あまりに慈悲深い、そして滋味に溢れた音楽がある(録音の関係もあるのだろうか、わかる人にはわかる味わいだ)。
この枯れた味わいを進化と採るか、退化と採るか、それは各々の感性次第だと思う。
できれば何らかのオペラ全曲をステレオで録音してもらいたかったところだが、高齢のワルターにはそこまでは無理だったのだろうと想像する。序曲、あるいは前奏曲、どこをどう切り取っても崇高な、透明感に溢れるワーグナーに、これは晩年のワーグナーが至った「再生論」に近い境地の反映なのだろうと思った。
おそらくギリギリのラインでの録音だったのかもしれない。
その3年後には、周囲の期待を余所に健康面でもはや予断を許さない状況に見舞われるのだから。
1961年の6月と7月になっても、ワルターは大作をスタジオ録音する計画を持っていたし—ブルックナーの交響曲第8番、マーラーの交響曲第4番と第5番—《フィデリオ》の件も、この年の終わりまでマックルーアとの文通で活発に検討されていた。ビングはワルターを翌年に、メトロポリタン・オペラでの《フィデリオ》上演と、当時は建設中だったリンカーン・センターのフィルハーモニックホールこけら落としでのヴェルディのレクイエムの指揮に招いてさえいた。ビングが最後に会った時、ワルターは至って健康そうに見えた。これなら、あと2年は指揮できるだろう?
しかしワルターは、持ち堪えられそうにないとわかっていた。12月、彼はマックルーアへの私信で、「発作」が多くなってきたと打ち明けている。
具合はよくありません。それに1957年にニューヨークであった心臓発作のことを思うと、この病気の徴候は深刻に取らなければなりません。これは狭心症の発作で、強い苦痛となる症状なので、少しの無理もきかず、ニトログリセリンしか効きません。発作は不意に起こり、心身症に起因するようです。しかし原因が何であれ、このおかげで—体の面でも気持ちの上でも—指揮はできません。心臓の優秀な専門家に診てもらいましたが、もう自分でもわかっていたことをアドヴァイスされるだけでした。つまり、録音は延期しなければならないということです。・・・(中略)・・・
しかし、友よ、あなたとコロンビアに大変な迷惑をかけることになって私がどういう気持ちでいるか、想像できますまい—あなたは、《フィデリオ》の契約をキャンセルしたり延期したりしなければならないでしょう—ですから、私がいかに心苦しく思っているかおわかりでしょう。
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P573-574
ワルターの慈しみはどこまでも深いものだ。
確かにブルックナーやマーラー、そして「フィデリオ」の録音がもしされていたら、人類の至宝たる貴重なレコードは他になかったかもしれないと思うと残念だ(仕方ないけれど)。
少なくとも死の数ヶ月前までマイクに向かって音楽を指揮したワルターが遺した音楽を、尊敬の念をもって傾聴しようではないか。
ワーグナーが何と美しく、澄んで響くことか。
脱力のブルーノ・ワルター。
音楽を愉しみ、そして、聴衆に慈愛を届けようとする意志。
柔和なワーグナーだが、その昔、ウィーン時代の典雅さ、柔らかさとはまた違った意志が働いているように思われる。別の見方をすれば、少々物足りなさを感じさせるくらい柔かいのである。
しかし、それこそが老境のワルターの人生の総括たる答なのである。
「マイスタージンガー」前奏曲の途方もない拡がりと、屈託のない純粋さ。
そして、「パルジファル」からの2曲の信仰を超えたあまりに人間的な歌と心の静けさ。
私はできるだけワーグナーの上演を訪れることによって、『リエンツィ』と『パルジファル』をのぞく彼の作品を知り、それらの風土に同化するようになった。また、たいへんな努力をはらって、10巻からなる彼の『著作集』を勉強することによって—『自伝』が出たのは、ずっとのちになってからである—彼に至る道をさがし求めた。初期のパリ時代に書かれた論文は、私を楽しませると同時に感動させた。理論的な研究論文にはまったく頭の割れる思いをしたが、これはもちろん私の無能のせいである。けれども、ほんとうに永続的な深い印象を受けた論文は、もともと二つしかなかった。ひとつは『指揮について』(1869年執筆)で、これは当時の私の計画にとってまさに宝庫であった。もうひとつは、ひとりの創造的天才がもうひとりの天才の本質に、畏敬の念をもって没頭しているあのすばらしい文章、『ベートーヴェン』(1870年執筆)である。ワーグナーをとるかブラームスを執るかという問題、これは私が育ってきた、そして生きている環境からいって悩みの種になるはずであったが、私にとってはきわめて簡単であった。なぜなら、私はどちらを選んだわけでもなく、まさに両方を愛していたからである—一家言を持つ多くの人たちの意見が、はげしく二手に分かれて対立しているこの問題が、どうして私のなかで協調しうるのか、べつに解きあかしてみようとも思わなかった。賛否を表明することに対する無気力は、しばしば悲しむべき寛容の変種を生みだすものだが、私の場合はそうした誤ちでないことはたしかだった。それはべつとしても、あの頃の私は他のなににもましてワーグナーを熱烈に愛し、彼によって生活を支配されていた。しかし、彼の明るい光にくまなく照らされていたとはいえ、古典派が私の心から追いだされることはなかった。さまざまなものに結びつきを感じる私のこの態度はおそらく、私の天性にディオニュソス的な面とアポロン的な面とがあるという二元論によって、説明することが許されるであろう。私の天性には、相反する両者を仲よく両立させるだけの空間を保持するゆとりが、充分にあったのだと思われる。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P60-61


少年時代のこの回想の中にこそワルターの真実があるように僕は思う。
そう、「ゆとり」である。
なるほど、どんなに激しても、ワルターの音楽の中には常に「ゆとり」があったのだ。
