
この作品はボヘミアの自然と素朴な「民衆の声」から発したものであり、まさにチェコ音楽の極致を表しているといえる。ドヴォルジャークは瞑想する詩人の魂を内包しつつ、移りゆく素朴な気分から語りかけ、自然への内的関係をじゅうぶんに保ちながら、その感情内容はチェコ民衆の歓喜や情熱に固く係留されている。つまり純粋な人間の感情、夢想、熱情、戦い、勝利について語り得る個人的な経験や芸術家としての人生、そしてスラヴ人としての民族感情や精神性、こうしたものと響きをひとつにして音楽は流れていくのである。
~内藤久子「作曲家◎人と作品シリーズ ドヴォルジャーク」(音楽之友社)P166
実に言い得て妙の作品評だ。
真夏日が続く。
途轍もない暑さに心身が焼け焦げそうで、外にはいられない。
大自然の怒りがもはや爆発寸前というところか。
音楽は心を癒す。
民衆感情に根ざした、ナショナリズムに貢献するドヴォルザークのいわゆる「イギリス」交響曲とバーバーの、いかにも20世紀のアメリカ合衆国的「鉄の支配」が随所に顔を見せる単一楽章の交響曲に、同じものを感じるのは僕だけだろうか。いずれもが精神を標題化したものであり、慰めと安寧の外面を持つものであれ、ゴツゴツとした、狂気と闘いを示すものであれ、生命を感じさせる、豊かな音楽であることに違いはない。
The form of my Symphony in One Movement is a synthetic treatment of the four-movement classical symphony. It is based on three themes of the initial Allegro non troppo, which retain throughout the work their fundamental character. The Allegro ma non troppo opens with the usual exposition of a main theme, a more lyrical second theme, and a closing theme. After a brief development of the three themes, instead of the customary recapitulation, the first theme in diminution forms the basis of a scherzo section (vivace). The second theme (oboe over muted strings) then appears in augmentation, in an extended Andante tranquillo. An intense crescendo introduces the finale, which is a short passacaglia based on the first theme (introduced by violoncelli and contrabassi), over which, together with figures from other themes, the closing theme is woven, thus serving as a recapitulation for the entire symphony.
(ニューヨーク初演時のプログラムにおける作曲者自身による解説)
サミュエル・バーバーは同性愛者だった。彼はシベリウスの交響曲第7番に触発され、この交響曲を書いたという。
何より指揮するのは慈愛のブルーノ・ワルターなのだ。
音楽に慈しみが刻まれる。
心が躍る。
短期間で書き上げられた交響曲は、ドヴォルザークらしく旋律美に富む。
その旋律をいかにも浪漫豊かに歌い上げるワルターの指揮は、特に両端楽章を真骨頂とする。第1楽章アレグロ・コン・ブリオは推進力に富み、力強いが強弱を明確にした柔和な表現が美しい。また、ブラームスの第4交響曲を模範とした終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、(冒頭のトランペットのファンファーレから)ドヴォルザークらしい開放的な音楽で聴衆の心を鷲づかみにする。
あるいは、意外に遅いテンポのスラヴ舞曲がまたワルターの平和への思念が籠るようだ。
ところで、パートナーであったジャン・カルロ・メノッティに献呈されたバーバーの交響曲第1番。この作品をワルターは得意としていたようで(改訂稿を初演したのはブルーノ・ワルターその人)、単一楽章の中に大自然の陰陽の機微と、作曲家の愛する恋人への思いの丈が存分に刻印されており(特に第3部アンダンテ・トランクィロの場面)、その劇的な表現は拝跪したくなるほど神々しい(ワルターの信仰の表れだろうか)。
2年後、アルトゥール・ロジンスキがニューヨーク・フィルとウィーン・フィルの両方でバーバーの交響曲第1番を指揮したが、これはシベリウスの第7番に負うところのある曲だった。同じ世代の多くの作曲家が無駄のないテクスチュアと短いモティーフを好んだのにたいして、バーバーは長い旋律線と豊かなオーケストラのテクスチュアを生み出し、まるで高蛋白の食事をとったような感じを聴衆に残した。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽1」(みすず書房)P300
こちらも言い得て妙の作品評。
世間では賛否両論の中、名指揮者たちがこぞって採り上げるのだからやはり本物だ。
音楽評論家のロバート・ドナルドソン・ダレルが「見かけ倒しのモダニズムの奇怪な茶番劇」と呼んだそうだが、さにあらず。
ブルーノ・ワルターは、新ウィーン楽派の無調音楽、十二音音楽には、否定的だったようですね。クレンペラーがこれらのレパートリーを、従来の調性から解き放たれるのは素晴らしい事ではないか…と、インタヴューで語っておいでだったのとは、対照的です。まぁ、これにはオットー大帝の、競争相手への対抗意識も、あったかも知れませんけれども…。
ワルターのドヴォルザーク《第八》は、録音活動最後の年、1961年収録のステレオが名盤ですが、このSPも完熟の出来栄えではないにせよ、ファンなら一聴して損はないかと、存じます。
>タカオカタクヤ様
ワルターはインタビューで、無調に関してはあからさまに否定するのではなく、自分には受け入れがたい旨を述べてますね。
無調を唱道するシェーンベルクは「正しいのかもしれない」とワルターは認める。「しかし、音楽の性質には、ある種の内在する法則があると私は信じています。もしそれを破れば、音楽の本質は壊れてしまいます。」しかし彼はすぐに、自分はシェーンベルクの初期の作品は「大好き」だとつけ加えている。
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P231
クレンペラーは躁鬱激しい人でしたから、その意味では芸術の両極を受け入れることができたのかもしれません。ワルターは人として誠実で真面目な人ですから、上記の言葉が本音なのだと思います。(クレンペラーに対する対抗意識などはなかったと想像します)
ワルターのドヴォルザーク、晩年のステレオ録音も素晴らしいですよね!
まったく同感です。