
就任当時は、正直「どうか?」と疑問を感じたが、アバド時代のベルリン・フィルには(個人的に)とても好感を持つ。それまでなかった画期的な企画や、何より彼の創造する音楽の自然さに魅かれるのである。
アバドは「マエストロ」とは呼ばれたがらない。最初のリハーサルのとき、彼はオーケストラに向かってこう言った。「ただ、クラウディオです」、「私は皆さんのクラウディオで、タイトルはいりません。私は他のどのオーケストラとも同じように、ここでも仕事をしたいと思っています」。いまだに、楽団員はみな、彼のことをクラウディオと呼んでいる。ソロ・チェリストのゲオルク・ファウストにとって、アバドとは—
作曲家あるいは作品に非常に忠実な音楽家でありながら、表面的な完璧さには陥らず、楽器と一緒に登場する人間を常に見ている指揮者です。(・・・)カラヤンは最後の数年、非常に集中していたので、かえって演奏の妨げになるような圧迫感を与えました。しかしクラウディオ・アバドの場合、いつも信じられないくらい平静で、くつろいだ感じなのに、最高に集中し、鋭敏な耳を保っているのです。そのような耳によって音楽が最高のレヴェルに達し、そこからまた集中力が生まれてくるのだと思います。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P355
こういう人柄がまたアバドの音楽の源泉なのである。
アバドの平静さが、ときにつまらないといわれる理由でもあろうが、平静さこそが彼の音楽の「静けさ」の秘密なのだと僕は思う。
メンデルスゾーンを聴いた。
それ以前に比較し、随分削ぎ落された表現だと感じた。
1995年の大みそかコンサートの記録。
真冬に夏至の聖ヨハネ祭の音楽を採用するところがアバドの才と粋。
オーベロン
妖精たちよ、夜明けまで
踊れ、邸のすみずみまで。
われら二人は新床を
訪い、授けよう、祝福を。
そこで生まれる子供らに
永遠のしあわせあるように。
その子供らの身体に
生来の傷ないように。
黒子、兎唇、痣などの、
生まれながらに、世の人の
不吉ときらう傷跡に、
悩まされることないように。
妖精たちよ、それぞれに
清らかな野の露を手に、
邸の部屋という部屋を
訪れ、注げ、祝福を。
そこに眠れる人々を
訪れ、注げ、安らぎを。
さあ行け、すばやく跳んで行け、
夜明けになるまですませておけ。
~ウィリアム・シェイクスピア/小田島雄志訳「夏の夜の夢」(白水ブックス)P146-147
抜粋ながら、静かなアバドの真骨頂!
音楽的であり、また演劇的であり、メンデルスゾーンの持つ内なる安息がこれほどうまく表現された例が他にあろうか。
3組の男女がついに結婚を果たす。
なお、「イタリア」交響曲についてはかつてのロンドン響とのものに一歩を譲る。

