
あの1938年の夏にはちょうど第1回のルツェルン音楽祭が開かれ、トスカニーニと私とが招かれていた。そのときのことでは、或るひとつの独特な催しが記憶に残っている。トスカニーニの指揮によってワーグナーの『ジークフリート牧歌』が、トリープシェンのそばの、ジークフリート・ワーグナーが生まれた家のまえで演奏されたのである。ここはこの作品が作曲されたところであり、はじめて鳴りひびいたところであった。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P439
「ジークフリート牧歌」初演は、1870年クリスマス当日。
この日のコジマの日記には、彼女の心境、リヒャルトとの対話など、天才音楽家のプライベートが垣間見えて面白い。



有名な日記の後半はこうだ。
昼、おそらくリヒャルトのいちばん大切な友人であるズルツァー博士が到着。朝食のあとで、もう一度オーケストラが階段に並び、階下に牧歌が鳴り響いた。一同、感動のきわみ(バッセンハイム伯爵夫人にも聴いてもらおうと思い、お呼びした)。それから《ローエングリン》の結婚行進曲、ベートーヴェンの七重奏曲、そして最後にもう一度、何回聴いても飽きることのない牧歌が演奏された。
(1870年12月12月25日、日曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P275
生れたばかりのジークフリートと共にこれらの音楽は彼女の心底に神々しく、そして慈愛をもって響いたことだろうと想像する。
リヒャルトがわたしに内緒で曲を書いていたこと、トランペットを吹いたのが善良なるリヒターであることがわかった。リヒターはそのためにわざわざトランペットを習い、ジークフリートの主題を吹き鳴らしていたのだが、わたしはそれに何度も小言をいったものだ。「このまま死なせてください」とリヒャルトに呼びかけると、「わたしのために生きるよりも、わたしのために死ぬことのほうがたやすかったはずだ」と彼は答えた。
夜、リヒャルトは《マイスタージンガー》を知らないズルツァー博士のために台本を読んで聞かせた。わたしは、まったく新しい作品を聴くような深い感銘を受けた。リヒャルトのズルツァー評。「《マイスタージンガー》を朗読するつもりだったが、それはいつも間にかズルツァーとの対話になっていた」。
~同上書P275
何ということのない日常が実に新鮮に感じられるのは、(コジマが当然後世の人々に公開されることになろうとは思いも寄らなかったであろう)真実が語られるからだ。
「ジークフリート牧歌」がいかに感動的だったか。
ブルーノ・ワルターの「ジークフリート牧歌」は2種あり、外面的効果はまったく異なるものの、音楽の根底にある慈愛の心はいずれにも通ずることがわかる。
1935年の「ジークフリート牧歌」は、ウィーン・フィルとの演奏で、典雅な、前時代的浪漫を表出する、実にワルターらしい、聴く者の心の奥底にまで届く極めて美しい名演奏。

一方、最晩年のコロンビア響とのそれは、極めて透明度の高い、情感を排した、しかし柔和で美しいものだ。
レコーディングに時間をかけ、念入りに編集されたであろう、古き良き時代のレコード芸術は、60余年の時を経てもなお光輝を放つ。ふくよかな響きと慈しみに満ちる「ジークフリート牧歌」は、まさにコジマ・ワーグナーの愛したそのときの演奏の木霊なのかどうなのか。
また、「タンホイザー」序曲とヴェーヌスベルクの音楽の崇高な、聖俗相対の美しさと透明さに感無量。ここには青年時代から続くワルターの、ワーグナーへのシンパシーが刻印される。
なるほど、『ローエングリーン』や『タンホイザー』は美しかった。このことは親戚や知人たちが言っていたばかりでなく、音楽院でも認められていた。たとえ真のワグネリアンたちはそれらの初期の作品について、すでに軽視の倍音をひびかせながら語りはじめていたにせよ。しかし、人びとは声をそろえてこう合唱した。『ローエングリーン』ののちワーグナーは邪道におちいったのだ、と。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P58