
わずか4年の差とはいえ、歌手の技術の衰えから生じる差が出るのは致し方なし。
1948年の「ブリュンヒルデの自己犠牲」は、1952年のそれと比較し明らかに声に張りと伸びがある。一方、フルトヴェングラーの指揮は老練の棒ということもあり、1952年録音の方が円熟味を増しており(基本の解釈はまったく変化ないが)、愛好家としては両方を備えておきたいところだ。

キルステン・フラグスタートの真実。
彼女がいたって「普通の人」だったことがわかるエピソードがある。
歌唱については、私と同じ道を歩もうとしている人たちに役に立つことを話すことはできないと思う。なぜなら、歌唱というものを方法論や科学として理解しようとしたことがただの一度もないからだ。私は、楽屋で何度も心ゆくまであくびをして声を完全にリラックスさせているということを以前にBBC放送でしゃべったことがある。私のイゾルデやブリュンヒルデをほめたたえてくれる多くの人たちにとってはたいへんなショックだったと思う。というのも、『トリスタンとイゾルデ』の第3幕の大詰めで、登場する合図を舞台裏で待っている間、私が一人でトランプ遊びに興じていることを知って幻滅した人たちがいたからだ。そのようなことは、私にとっては取るに足らない平凡な事実である。
~ルイ・ビアンコリ/田村哲雄訳「キルステン・フラグスタート自伝 ヴァグナーの女王」(新評論)P407
否、それだから彼女は「普通ではなかった」とも言えるかもしれない。
一方、オペラ歌手としての彼女の演技はどうだったのか?
演技のことで手短に言っておきたいことがある。メトロポリタン歌劇場にデビューしたころ、私は何人かの批評家から「演技をほとんどしていない」と言われたことがある。しかしそれは、最初のシーズンの間だけで、それ以降、彼らは自説を完全に覆した。彼らは、私の必要最小限の演技を評して「無駄のない動きだ」と言い、さらに「ほかの人たちも私からそれを学ぶとよい」とまで言った。そのとき、私は天にも昇る心地だった。
~同上書P409
やはり持って生れた才能あっての歌手だったのだ。こういう人を真の意味で「天才」というのかもしれない。
フラグスタートのワーグナーは別格だ。
その歌唱を聴いていると、演技までもが見えてくるのだから興味深い。
フィルハーモニア管をバックにフラグスタートがワーグナーを歌う。
すべてがウォルター・レッグのプロデュースによるものだが、贔屓目は別にしても、これだけ指揮者の力量、というか才能の違いが如実に刻印されているのを比較視聴できるのは実に興味深く、フラグスタートとフルトヴェングラーの組み合わせがいかに一世一代のパフォーマンスであったかがわかって面白い(ワーグナーの楽劇は管弦楽部がどれだけ重要であることか)。
ただし、セバスティアンもヴァイゲルトも凡演だというわけでは決してない。
あくまでフルトヴェングラーの魔性と比較して(あるいはフラグスタートとの相性、シナジー)という意味合いにおいてというわけだ(私見だけれど)。

