自由にやりたいようにやる

アルバン・ベルクの最後の作品であるヴァイオリン協奏曲を聴いていて、ほとんどこれは「空(くう)」というものを表現したような音楽だなと感じた。もちろん作曲した本人は意識はしていないが、完成からわずか4ヶ月後には急逝してしまうことを考えると、介在意識では最愛のマノン・グロピウスの追悼の意味で書き上げたにもかかわらず、一般的に言われるように潜在的には自身の死期をすでに悟り、自らのレクイエムとして創出したのだと確信できる。例えば、早朝の瞑想時、あるいは就寝前の瞑想時、静かになり、自然の流れと一体になるそのほんのわずかな時間に感じ取ることができる調和が、この十二音技法で書かれた音楽の中に垣間見えるのだから面白いものである。もっとも、専門的な解釈は僕にはできないが、この協奏曲には「調的な要素も少なからず流れ込んでいる」そうだから、それこそこの曖昧さゆえの安定感から、我々人間には余計に調和が感じられるのだろう。
四角四面で物事を規定し、捉えていくことはどんなことでも難しい。人というもの、自然というものが揺らぎの中で生息しており、ルールという型の中にはめ込もうとすることがそもそもナンセンスなのである。やりたいようにやる、生きたいように生きる、でいい。ただし、その際、人が他人のために生まれ出ているのだという意味だけは取り違えてはならない。そう、自由というのは義務と責任の下にあるということ、すなわち自分のためにあるのではないということをきちんとわかってやりたいようにやることが大事なのである。

ところで、チョン・キョンファは本当に引退したのだろうか?もう何年も音沙汰がない。かつての強力な録音を聴くたびに、もう一度あの壮絶な舞台に接してみたいと心から願ってしまう。キョンファの芸術の根底には静けさと爆発と、そして「色(しき)」と「空(くう)」が入れ代わり立ち代わり明滅する。特に実演においては(絶好調の時に限るが)金縛りにあうような「いまここ」が体感できる、そういう世界に聴衆を誘ってくれる。彼女はただ単に弾きたいように弾いているのではおそらくない。そこには真の自由がある。作曲家と聴衆と自分自身の感性と、その三つ巴によって極めて密度の濃い「音楽空間」が表出される。常に「場」と「オーディエンス」を意識しての「自らの音楽」、なんとかそれを今一度体験したい。切にそう願う。

そんなチョン・キョンファが録音したベルクの協奏曲はマイクに入りきらない部分はあるものの、繰り返し何度聴いても20世紀の音楽とは思えない安寧を指し示してくれる。これを聴いているうちは見事に乱れない。

ベルク:ヴァイオリン協奏曲
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第1番(遺作)
チョン・キョンファ(ヴァイオリン)
サー・ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団

僕はついにショルティの実演に接する機会を失った。20年ほど前にシカゴ響と来日した折、チケットを押さえていたにもかかわらず、仕事の都合で当日会場入りすることができず涙を飲んだという経験が一度あるだけ。巷の評論家のゲオルク・ショルティに対する否定的見解を鵜呑みにし過ぎていたことが災いしてチャンスを何度も逃したことが何とも悔しい。
例えば、ラローチャを独奏者に迎えたモーツァルトのK.595などは若い頃からの愛聴盤だし、マーラーの第8交響曲なども固唾を飲みながら繰り返し聴いた最高の記録だと思えるのだから、もっと一生懸命フォローしておけば良かったと・・・。

ちなみに付録の1曲、バルトークの方はおそらくショルティの力量に依って渋いながらより一層輝きに満ちた演奏をキョンファが披露するという図式。素晴らしい・・・。

8 COMMENTS

雅之

こんばんは。

>四角四面で物事を規定し、捉えていくことはどんなことでも難しい。人というもの、自然というものが揺らぎの中で生息しており、ルールという型の中にはめ込もうとすることがそもそもナンセンスなのである。やりたいようにやる、生きたいように生きる、でいい。

私は音楽の趣味については、もう純粋に「音だけ」という枠組みだって、どうでもいいやって感じになってきてますよ(笑)。

音楽は「音」だけに閉じ込めておくものではなく、「光」を含めた芸術であって何が悪いんでしょうか? 歴史的に見ても・・・。
たとえば、チョン・キョンファの場合なんかも、「音」だけでは語り尽くせないんじゃないでしょうか? どこか、ステージでの視覚効果と渾然一体となって聴衆の忘がたい体験になっているのでは?

否定できますか?

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
全く否定できません。

>ステージでの視覚効果と渾然一体となって聴衆の忘がたい体験になっているのでは?
間違いなくそうです。キョンファに限らず、これまでの実演体験のすべてがそういうものだと思います。
その意味では、こうして毎日のように聴いている音楽は「枠組み」をなぞらえてこれまでに生で聴いた音楽の感動を思い出す術として単に使っているだけなのかもしれません。

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岡本 浩和

>雅之様
今、風呂に浸かりながら雅之さんのコメントを反芻していたのですが、少なくとも僕は過去の録音を聴くことで「今」
の自分を確認しているように思います。その意味では、もっとも原始的な感覚である「聴覚」だけで十分なのかも・・・。そんな風にふと思いました。

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雅之

まあ、好奇心の差の問題でしょうね。

それと、音楽でも「明るい」「暗い」などと譬えたりしますよね。
アルバム・タイトルも「カインド・オブ・ブルー」とか、視覚と繋がっています。
ジャケットは大切ですし。再発などでジャケットが変われば音楽の印象も変わることは、経験上よくあります。

100,000lx(太陽光の3倍くらい)に明るく照らされた部屋と、真っ暗な部屋で、それぞれ同じ「暗い音楽」を聴く実験をしてみたいです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。

>明るく照らされた部屋と、真っ暗な部屋で、それぞれ同じ「暗い音楽」を聴く実験をしてみたいです。

面白そうですね、それは。いずれにせよ、音楽を聴くうえで視覚が重要であることは否定しません。

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