海童道(わたづみどう)

watazumido_practical_philosophy.jpgデスクトップPCが起動しなくなった。どうやらハードディスクがやられた模様。ウィルスに感染した挙句の「オチ」かもしれない。3年前に人様からいただいた中古品ゆえ致し方なし。役目が終わったということかな。

まもなく2010年を迎える。何と元旦は満月であるという。しかも部分月食まで起こるのだと。古いものが消滅し、新しいことが始まる予感であり、不要なものが駆逐され、必要なものが自ずと脚光を浴びる時代になるのだろう。本物だけが残るのである。

周りの動きが慌しい。どうしても転職を余儀なくされる人。あるいは引き戻される人。一見最悪に見えることでも後になって振り返って見ると「あの時のあれはああで良かったんだ」ということになることが多い。最終的には自分自身を信じることしかない。アンテナを立て、直感で感じとり、進むべき方向に進むこと。

「何ができるのか?」―独自の世界を築き上げた人を、人は「孤高」と呼ぶ。俗世間から離れずとも、できることを追求してゆく人はかっこいい。種を蒔き、水を遣り、太陽を浴びて芽吹く。花が咲き、やがて果実が実る。一所懸命が大事なんだな・・・。

ようやく年賀状を書き終え、投函した。例年はおススメCDや書籍など、僕の一方的な「想い」を賀状に認め、縁ある方々に送付させていただいていた。毎年楽しみに待つ方もいらしたようだが、自己満足の世界ということもあり、中には「意味がわからない」と不評を買うこともあったようなので(笑)今年からそのスタイルはやめることにした。

松岡正剛氏の「連塾・方法日本Ⅱ」を読んでいて、中村明一氏の尺八の素晴らしさに触れた箇所があり、その音がどうしても聴きたくなった。

中村
ええ、尺八の楽譜では、記譜の文字と音高とが、一対一対応をしてはいない、ということです。尺八は一見素朴な楽器ですけれども、ある意味で人間の体に入っていくような進歩の仕方をしているんですね。西洋の楽器は、指が届かないところへ向かっていかに指を運ぶかという体外に向かってどんどん発展していくところがあります。尺八の場合は、正倉院に所蔵されている中国から伝わったものからくらべると、内径が非常に太く変化しているんですね。これは世界の楽器の発展の仕方からすると逆行です。
松岡:どんどん吹きにくくなっている。
中村:そうなんです。ふつうは縦笛はだんだん細く吹きやすいものになっていきますし、この手孔もどんどん増やすことで音質・音量が平均的に出るようになっていく。ところが尺八の場合は手孔の数がどんどん減って、しかもだんだん大きくなっています。手孔は小さいほうが演奏しやすいはずですよね。指で閉じたり開けたりするのが簡単で、オンかオフかのデジタルな動きを正確にすることができますからね。ところが、これが大きくなると、指で押さえきれなかったり、閉じそこなったりする恐れも生じます。
(前掲書P61~62より抜粋)

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」を初演した横山勝也氏を師とする中村明一氏の尺八。一度じっくりと生演奏を聴いてみたい、心底そう思った。残念ながら彼の音盤は所有していないので、師の横山氏のこれまた師である海童道祖の音盤、それも唯一のライブ録音を。

海童道 無装飾無調音
吹定(すいじょう)=海童道祖(わたづみどうそ)
(1973.12.5Live東京文化会館小ホール)

以前、海童道祖を採り上げた。身震いするほどの険しさと緊張感をもつ傑作「神秘の竹の音-前衛と古典」である。「吹定」という行為は、道具と呼ぶ竹笛を用いて、修行を積む方法であることから演奏が一般公開されることがなかった。しかしながら周囲よりの長い間の懇請を受け、ようやく昭和48年12月5日に「海童道を聴く会」として開催されるに至ったということである。解説書によると、当日の楽曲(=道曲とよぶ)は初めから選ばれず、道祖がその場の気分に即して選び、簡単な説明を加えながら演奏を披露していったという。音盤には道祖の解説ともどもその全容が記録されているが、とにかく凄い!魂に直接的に響く音である。

特に、「鶴の巣籠り」においては、素人が単に切取っただけという竹を使って、「指を躍動させ、呼吸だけを使う」奏法により信じられない感動的な「音楽」が演奏されている。

上野のアメヤ横丁には本日だけで40万もの人が訪れたのだという。そういえば昨年12月30日にぶらりと出掛けた時に立ち寄ったが、とても歩けるような状態じゃなかったことを思い出す。日中、巣鴨地蔵通り商店街を散策。歳末ゆえの賑わいかもしれないが、昔ながらの商店街は活気があって良い。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
松岡正剛氏の「連塾・方法日本Ⅱ」、未読ですが、テーマが目下私の最も興味のあることのひとつなので面白そうです。
実は私も、これからの日本人の思考に一番必要なのは、「引き算の美学」だと考えていたところでした。エコやCO2削減にしたってそうですし、卑近な例でいえば、何千枚も所有しているCDなんぞ、真に必要な数百枚か数十枚を除いて全部処分したら、どんなにスッキリするだろうとマジに思っていることなどもそうです。
中村明一氏の、尺八の素晴らしさについての話も納得です。
>これは世界の楽器の発展の仕方からすると逆行です。
ゲームやスポーツでいえば、難易度が高くなり、奥深く進化しているということですね。ボウリングだって、ガター(ガーター)があり難しくなってるからこそ面白いですものね・・・って、ちょっと場違いな譬えでしたか(笑)、失礼しました。
しかし、そもそも楽器の進化って何なのでしょうね。極論すれば、私や岡本さんでもボタンひとつ押せば、思うがままの解釈でリストの超絶技巧曲が完璧に弾けてしまうほど演奏技術が簡単になるよう改良されたピアノが発明されたら、それは楽器の進化といえるのでしょうか?
「海童道 無装飾無調音」も、未聴なので、ぜひとも聴いてみたいです。
ところで、正倉院に所蔵されている中国から伝わった楽器と聞いて、急に私の脳裏に、今まで誰も考えつかなかった仮説が閃きました! これは神仏からのお告げなのでしょうか?!
その仮説とは、
「ヴィオラと琵琶は、シルクロードの元を辿れば同じ語源である!!!」
何?根拠は?ですって?
「根拠は後から貨物列車に乗って付いてくるんです!!!」

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>これからの日本人の思考に一番必要なのは、「引き算の美学」だと考えていたところでした。
同感です。不要なものは捨て、いろんな意味で身軽になった方がいいですね。柔軟性が大切だと思います。その点、僕は頑固でまだまだです。
文明の進化は、ある意味人間の退化とイコールだと思います。人間と自然とは一体であり、かつ大いに乖離している、そういう「矛盾」が内側にあるように思うのです。そういう意味では、おっしゃるとおり「難易度が高くなり、奥深く進化しているということ」ですね。
海童道祖の演奏はぜひとも聴いてみていただきたいと思います。今回の音盤も素晴らしいですし、2007年8月に紹介したものも途轍もない代物です。
>「ヴィオラと琵琶は、シルクロードの元を辿れば同じ語源である!!!」
いや、ありえるんじゃないでしょうか!
そういう僕にも根拠はないですが(笑)。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » 静かに、そして緩やかに、古の音楽

[…] 「前奏曲とフーガ」を聴いて、バッハとショスタコーヴィチに触れていたら、どうにもこうにも中世の音楽を聴きたくなり、久しぶりに古の音楽を聴いてみた。 クラシック音楽というものがそもそも大昔の音楽なのだけれど、我々が一般的に享受しているクラシック音楽なるものは300年前のバッハ以降のものがほとんど。それ以前のものは抹香臭くて、あるいはキリスト教の知識がいまひとつ不十分で随分長い間避けてきたが、35歳を超える頃からか実にその面白味が「わかる」ようになった。時にそれら(特にアカペラ)の聖なる響きに身を沈めるだけで随分思考が鮮明になり、心もともに浄められるのだから、古き聖なる音楽の力というのはやっぱりすごいものだと感心する。 しかしながら、より深く理解するとなると歴史をもう一度じっくりとひもとき、そして西洋地理についても知識を得、さらにはキリスト教そのものの本質を知ることが重要だろうから、そのあたりはいずれ時間ができた時にゆっくりと取り組みたいとも思っている。 そういえば若い頃はどうも西洋かぶれで、日本の文化など目もくれない自分がいたが、鶴田錦史さんを題材にしたノン・フィクションを読んだり、日本の古代史(「日本書紀」や「古事記」など)、超古代史について知れば知るほど、自ずと「和」というものに俄然興味を抱くようになり、その流れで日本の伝統音楽、雅楽などについてももっと聴いてみたくなった。 鶴田錦史さんの演奏は武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」でしか触れたことがない。本業の琵琶の演奏についてもいろいろと聴いてみたい。好奇心がこうも広がってゆくと時間とお金の問題がどうしても生じるが、そのあたりは少しずつ解決しながらひとつひとつゆっくりじっくりと研究してゆくか・・・。 琵琶や尺八などは意外に西洋の教会音楽と通じるものがあるかも、などと空想しつつ(そういえば、海童宗祖の法竹などは何度聴いても気絶するほどの崇高なエネルギーに満ち溢れており、すべてに通じる気がするからそういう直感は間違いないように思うが)今夜のところは西洋中世音楽を。 […]

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第4章 » Blog Archive » すべてはつながってゆく

[…] 『さわり』という鶴田錦史氏の生涯を追ったノンフィクションを読んで以来、ショスタコーヴィチの追究と並行して琵琶や尺八(尺八ではないが、法竹という独特の楽器を操る海童道宗祖の録音については以前から愛聴盤だけど)の音楽についても少しずつ聴き始めている。 昨日、久しぶりにマーラーの第8交響曲を聴き、彼のあの大作が規模的にも内容的にも西洋クラシック音楽のある意味クライマックス地点で、その後のヴェーベルンを筆頭にした極めてミニマルな世界観を表出する戦後すぐの頃のモードが結果的に西洋クラシック音楽の終着点になったのかなとふと考えた。ヴェーベルンのあの緊張感のある極小の音世界が我々に与えるインパクトというのは並大抵でない(もちろん僕がその世界について完璧に理解したわけではないのだけれど)。 一方で、違った意味でミニマルの極限で、間違いなく俳句的世界を体現する武満徹が書いた琵琶と尺八のための音楽が、マーラーのクライマックスとは違った意味での「宇宙」を表すものなのかとも考えた。 外見的には、マーラーのシンフォニーが大宇宙、そして尺八や琵琶の世界が小宇宙に見えるが、そこに拡がる空間は全く逆で、鶴田錦史や横山勝也が生み出す音世界のこれほど深遠で、どこまで行っても終わりのない、彼岸と此岸をつなぐ圧倒的極大世界に身も心も釘付けにされてしまうところがとにかくすごい。僕の30年に及ぶ音楽愛好人生の中でも、この出逢いというのは極めつけのようにも思われる。いわゆる雅楽や邦楽の可能性。このあたりを今後はもっと勉強してみたい、そんなことを想いながら聴いてみた。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む