僕って誰?

haskil_1957_salzburg.JPG40歳を超えてからかどうかは不明だが、最近「記憶力」が随分低下した。人の名前や電話番号は一度聞いたら忘れない自信はあったのだが、どうも一発で憶えられなくなっている。1日に何十万(何百万だっけ?)という脳細胞が死滅してゆくわけだから致し方ないが、それにしても情けない。先日も「早わかりクラシック音楽講座」をやるにあたりお目当てのCDをどこにしまったのかわからなくて右往左往した。収集家とはいえたかだか5000枚ほどの音盤しか持ち合わせていない。このCDはいつどこで買ったもので、どの辺りに収納されているのかこれまでなら完璧に把握できていた。長い間聴いていないものでも確実に押さえていたのだが。それが思い出せないのである。確かに持っていたはずだという微かな記憶だけをたよりに数十分探しに探した。しかし見つからないのだ。大袈裟だが茫然自失状態。まぁいいかとも思ったが、気になってしょうがないのでさらに捜すこと十数分。ようやく探し当てたが、自分の記憶とは全く違うCDにその曲はカップリングされていた。

そういえば、つい3年ほど前、眼鏡屋を訪れ、たまたま視力を測ったら良くなっていた。チベット体操のお蔭か、船井幸雄会長直伝の手振り運動のお蔭かと喜んだのも束の間、よくよく考えてみると新聞や書籍の字が眼鏡を着けた状態だと見にくくなっていることに気づいた。近視用の眼鏡をかけていて近くがぼやけるようになってきたということは・・・。そう、老眼になりつつあったのだ。これまた愕然。

自分の歳を時に忘れてしまうことがある。精神はいつも若いまま保たれているものの、迫る年波には逆らえない。永遠に20歳の青年だと思っているのだけど。

1997年、ザルツブルク音楽祭に詣でた時、祝祭劇場近くのショップで見かけた音盤。1957年音楽祭のドキュメント。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調作品31-3
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960
クララ・ハスキル(ピアノ)(1957.8.8、モーツァルテウムでの実況録音)

1にも2にもプログラムが素敵で衝動買いしたCD。ライヴ録音ゆえの演奏の瑕は散見されるものの、そしてハスキルのテクニックの衰えが明らかであるものの、ひとつひとつの音楽から感じられる「温かさ」が並大抵でない。おそらくモーツァルテウムで実際の音に触れた者だけが体感できたであろう「エネルギーの循環」が各々の楽曲終了毎に起こる拍手喝采から容易に想像できる。十分鑑賞に耐えうる録音なのだが、タッチの微妙な変化を捉え切れていないことと、幾分こもり気味な点がかえすがえすも残念ではある。27歳のモーツァルトが生み出したソナタは生の歓びに溢れ、32歳のベートーヴェンが書いたソナタは人生を謳歌する様を軽やかに体現する。そして・・・、31歳のシューベルトが創出した最後のソナタはといえば・・・、子どもが親に問いかけるように「僕って何?僕って誰?」と永遠の疑問を突きつける。ここに「愛」を感じられれば大したものだが、ハスキルの演奏はそうはさせない。

他人のことは何でもわかるのにみんな自分のことはわからない。そうやって自分と闘って人は成長してゆくんだな。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
人間の記憶力は10代後半~20代前半がピークで、後は下がり続けますよね。クラシック音楽でも他の趣味でも、この時期に好きになれなかったら本当の意味で身に付くことは残念ながら決してないでしょう。私も、今生まれて初めて聴く1時間足らずの交響曲を、10代後半の時のように直ぐに理解することはすっかり不可能になりました。
昨日のコメント
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/4-1/#comments
に対するお尋ねについてですが、内田光子のシューベルト解釈は深淵を極め、文句の付けようがないです。
但し、芸術的完成度とは別に、たとえ緻密に計算されたものであっても、あそこまであからさまに感情移入をされると、個人的には少しだけ違和感を持つことがあります。
シューベルトの、特に晩年の孤独っていうやつは、確かどこかで渡辺和彦さんも書いておられましたが、「彼女いない歴うん十年」の「独身男の孤独」です。それを女である彼女に完璧に理解できるわけがないと聴いていて思ってしまうのです、独身女の本音を我々男が完璧に理解できないのと同様に・・・。そういう意味では、ブレンデルの演奏の方が、「男の孤独」という意味でしっくりきます。
従来男だけの趣味といわれてきた「鉄道」に、近年は男より詳しい「鉄女」がどんどん参入しています。鉱物採集でも何でも、男の趣味に優秀な女性が入ってきて、それはそれで実に喜ばしいことなんですが、彼女たちの志向は多くの場合、「男のロマン」とは何かが違うんですよね。
誤解を恐れず言い切りましょう。人類の「普遍的な愛」という高所からは、内田光子の演奏は完璧だと思います。しかし彼女のシューベルト演奏の「孤独」や「愛」は、なまじ解釈を深め過ぎるがために、どこか子宮で考えているようなところが、良くも悪くも、かえって浮き彫りになってしまっているように、私には思えてならないのです。
愛知とし子さんの演奏には、そういう違和感を抱いたことがありません(容姿やプライベートな性格はまったく別、あくまで演奏表現の話)。
だから私は、内田光子より愛知とし子の演奏の方が好みなのです。
ご紹介のハスキル盤は残念ながら未聴です。でも、内田光子よりハスキルの演奏の方が、総じて好みです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>しかし彼女のシューベルト演奏の「孤独」や「愛」は、なまじ解釈を深め過ぎるがために、どこか子宮で考えているようなところが、良くも悪くも、かえって浮き彫りになってしまっているように、私には思えてならないのです。
なるほど、そういうことなんですね。よくわかりました。まぁ内田にも「独身女の孤独」はあるでしょうが、男女の根本的な違いというのは埋めようがありませんからね。
ただしそうはいっても、やっぱり「普遍性」を捉え出して来ている内田の境地は、僕は凄いと思うんですよ。
>だから私は、内田光子より愛知とし子の演奏の方が好みなのです。
愛知とし子は「男」ですからねぇ(笑)。

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