
スタンダールが描く19世紀ミラノの諸相。
「私は夕方7時に(ミラノに)到着し、とても疲れ、スカラ座に走っていく」と、彼は1816年に書いた。「今晩、私は、最も東洋的な想像力が思いつき得るあらゆるもの、最も素晴らしく最も際立ったもの、建築美の最も豊かなもの、(略)鮮やかな織物、ストーリーが展開する国々の衣装だけでなく人相や身振りも有する登場人物を見た。(略)私は、世界で最も重要な劇場に走っていく」。
イタリアの偉大な19世紀、“オペリスティ”〈オペラの作曲家〉の4名全員—ロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニ及びヴェルディ—がスカラ座で作品を初演した。そして、最も有名な歌手、ダンサー、バレエ振付師及び背景画家がそこで雇われた。他の町の歌劇場は地元社交界の付属物として役立ったが、スカラ座はその初期の数十年間、全くミラノの社交界—とにかく中流、上流階級の社交界—だった。「スカラ座劇場は市のサロンである」と、スタンダールは述べた。「そこを除いて社交界は無い。私宅開放パーティの一つも無い。我々はスカラ座でお互いに会う。人々はあらゆる種類のことについて話す」。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(上)」(アルファベータブックス)P148-149
輝ける欧州の魅力を伝えるスタンダールの筆は掛け値なしだ。
もちろん当時、スカラ座に(そして東洋的なものに)魅了される人々は多かったのだろうと思う。
そして、数十年後、トスカニーニもミラノに魅了された一人だった。
トスカニーニにとってミラノは、三世代前のスタンダールにとってと同様に、美しく精力的で、極めて住みよい都市だった。二千年のイタリアの歴史に亘る建築記念物で飾られ、“ナヴィーリ”—航行可能な人口運河で、最も初期の物はローマ帝国以前の時代に遡った—の網が縦横に走っていた。二十世紀の変わり目にほぼ50万人の人口を有し、この都市はイタリアの金融の都であり、欧州の主要な産業集散地の一つだったが、ミラノ生活には或る心地よさがあり、それをトスカニーニは愛した。彼はミラノ方言を理解し、カルロ・ポルタや後にはデリオ・テッサの方言による詩歌を読んで楽しんだ。今や、彼及び両親と妹達が同市の古くさいアパートに引っ越してから12年、彼は、ミラノの、そしてイタリアの最も偉大な歌劇場の長として文化的権力と威信の地位に就いていた。
~同上書P155
スカラ座時代のトスカニーニの古いアコースティック録音を聴く(再登板の際のレコーディングになるが)。
擦り硝子の向うから聴こえるようなか細い音かと想像したが、さにあらず。
造形含め、トスカニーニの熱気ある演奏であることがはっきりわかる録音に感激した。
スカラ座再登板が1921年のことだから、その前後の録音ということだ。
そのすべてに古き良き欧州の、活気溢れる、輝けるイタリアの匂いが微かに感じられる。
(音楽の真意をつかみとるべし)

ガエターノ・ドニゼッティ最後のオペラである「ドン・パスクァーレ」の序曲、あるいはヴエルマンノ・ヴォルフ=フェラーリの歌劇「スザンナの秘密」序曲など、推進力抜群の音楽はトスカニーニの真骨頂。
オットリーノ・レスピーギの「ガリアルダ」がまたトスカニーニの優美で繊細な一面を示す演奏で、美しい。