
ブルーノ・ワルターの思い出の曲。
ヨハネス・ブラームスが母の死に際し、そして師ロベルト・シューマンの思い出に捧げた作品は、清澄でありながらブラームスらしい重厚さを持ち、幾度聴いても感動を喚起させられる名曲だ。
ワルターの思い出とは如何に?
ドイツ軍のオーストリア進駐があった翌日、ナチに先んじるために、私はケルバーに電報を打って、ウィーン国立歌劇場との契約解消とザルツブルクでの義務の免除とを要請したのであった。それとともに、すでに協定のできていた、私の指揮によるウィーン歌劇場全員のフィレンツェ客演も不可能になった。そこでフィレンツェ音楽祭の委員長ラブローカに手紙を書き、こんどの5月にフィレンツェで行われるウェーバーの『オイリュアンテ』上演については、もはや私は無関係であると考えてほしいと頼んだ。彼は電報で返事をよこし、どんな事情があってもあなたは離さないと言ってきた。やがてみずからモンテ・カルロまでやって来て、どうかフィレンツェを見捨てないでほしいと訴えた—ウィーン歌劇場と『オイリュアンテ』は断念する、と言うのである。そこで私はフィレンツェのイタリア人による陣容で演奏できる作品を選ばなければならなくなり、ベートーヴェンの『荘厳ミサ曲』とブラームスの『ドイツ・レクイエム』をもって本来のプログラムに変えることにした。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P435
歌劇「オイリアンテ」上演が叶わなかったことは残念なことに違いないが、しかし、ワルターの指揮する「荘厳ミサ曲」と「ドイツ・レクイエム」が聴けるのである。どんなプログラムになろうと成功は保証されたようなものだ。
ワルターにとって当時の問題は、旅券の効力が無くなったことだった。
モナコの市民権を得ようと努めたものの、早期解決には至らなかったという。
しかし、5月に開催される音楽祭のためにフィレンツェ行きは幸運にもまだ可能だった。
パリのイタリア領事がローマからの指令にもとづいて、旅券検査なしにイタリア国境を出入りできるようにとりはからってくれたのである—こうして音楽祭のまえに官僚が頭をさげたことを、私は大いに愉快と感じた—私は以前と同じように満足して、五月音楽祭への新たな参加から戻ってきた。音楽祭委員会が苦境にありながらも私に示してくれた愛着の念のおかげで、私はこのすばらしい企画と以前にもまして心から結ばれていることを感じた。
~同上書P437
「音楽の使徒」たるブルーノ・ワルターの真骨頂ともいえる。
フィレンツェでの演奏はさぞかし素晴らしいものだっただろう。
掛け値なしに美しくも清廉なワルターのブラームス。
おそらく当時の思いが脳裏を過るのだろうか、合唱による第1曲「幸いなるかな、悲しみを抱くものは」の、自らを慰めんとするワルターの生の肯定であり、希望の光である。
そして、ジョージ・ロンドンの独唱が冴える第3曲「主よ、知らしめたまえ」の沈潜する音調に、指揮者の真の祈りと、慈しみの念を想う。(ここは極めつけ!)
同様にゼーフリートを独唱に据える第4曲「いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、万軍の主よ」の、魂の慟哭に心が震えるほど。
信仰篤いワルターの演奏は主観的だが、どの瞬間にも真実がある。
そうなると、ワルターの正規録音の中にベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」がないのが実に残念だ。