バレンボイム指揮ベルリン・フィルのモーツァルトK.503(1988.2録音)ほかを聴いて思ふ

昨夜の、ハンヌ・リントゥ指揮都響の「クレルヴォ交響曲」は実に素晴らしかった。

ついぞ面白いと思わなかった作品にある日突然開眼するということがある。
音楽というものは、それを再現する人の力量ももちろんあるのだが、どちらかというと聴き手の器がより大きく開かれた瞬間にこそ、理解が深まるものなのだろうとあらためて思った。
ウィーン全盛時代のほぼ掉尾を飾るモーツァルトの協奏曲ハ長調K.503も、つい最近まで僕にとっては「取るに足らない」作品だった。しかしながら、ダニエル・バレンボイムの新旧2種の録音を聴いて(特にバレンボイム自作のカデンツァ!)、この音楽が後のベートーヴェンにも間違いなく影響を与えただろうことと、あまりに開かれた宇宙的規模の音楽であることを悟った瞬間、腑に落ちた。間違いなくモーツァルトの、気力も体力も最も充実していた時代の傑作である。

バレンボイムが最初にこの曲を録音したのは1967年のこと。オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団のサポートを得ての雄大かつ厚みのある、まるでベートーヴェンのような音楽。提示部第1主題の最後に2度繰り返される「運命動機」のようなフレーズが徐に、しかし、確信をもって奏される様。主題提示の後のピアノ独奏は、いかにも指揮者に従おうとする謙虚な音楽。クレンペラーがバレンボイムを包み込み、究極のモーツァルトを体現するようだ。何より素晴らしいのはカデンツァ。ここには、まさに「運命動機」を取り込んだ稀有壮大な拡がりがある。

・モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503(1967.3.17-18録音)
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61(1966.1.21, 22, 24&25録音)
ユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

1786年12月4日完成。
第2楽章アンダンテの愛らしい調べは、バレンボイムの粒の際立ったピアノの音色と管弦楽の静かでふくよかな音響に支えられ、僕たちの心を照らす。終楽章アレグレットも、クレンペラーがイニシアチブをとり、しっかりとした足取りで重厚に進められる。後半に見せるバレンボイムのピアノの光輝はおそらく老巨匠クレンペラーの後光によるものなのかも。

続いて、20余年後の、今度はバレンボイムの弾き振りによるK.503。相対的にテンポは速くなり、音楽は一層充実度を増す。何よりバレンボイム自身が共感し、それが見事にオーケストラに伝わる、技術的にも精神的にも余裕の響き。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491
・ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503
ダニエル・バレンボイム(ピアノ&指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1988.2録音)

第1楽章のカデンツァは最初のものに比較して幾分暗い。しかし、その分、精神性は圧倒的に高い。当時のモーツァルトの魂は、父の死を目前にして悟ったかのように神々しかった。あるいは、第2楽章アンダンテにおいてのピアノと管弦楽が見事にひとつになる様に驚嘆し、終楽章の飛び抜けて軽快で揺れ動く音楽に感動する。巨大だ。この時期のモーツアルトの多彩さは涙もの。
ダニエル・バレンボイムの、モーツァルトへの愛情は人後に落ちない。

霊界の深淵へと私たちをみちびくのはモーツァルトである。恐怖が私たちを包むが、仮借を加えぬそれは、むしろ無限なるものの予感である。—愛とそして悲しみが、やさしい精霊の声の中に鳴りひびく。夜は輝かしい深紅色の顫光の中に消え果て、言うにいわれぬ憧れのうちに、私たちは、私たちを親しげにその列の中に招き入れながら雲を突き破って永遠の天空の踊りのうちに飛翔する姿のあとを追って進むのだ。
E.T.A.ホフマン/海老沢敏編・訳
「モーツァルト事典」(冬樹社)P175

死というものの清廉さと透明さを体現するモーツァルト。
1786年の終わりの頃には、すでに彼には「そういうもの」があったのだと思う。

 

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