
われわれはきわめて不完全な感覚にあらわれるかぎりでしか、事物の世界を知らないのであって、なにが《物自体》であるかはまったく知らないのだということ、これを私はカントから学んだ。またショーペンハウアーは、世界は私の思い浮かべる表象なのであって、そもそもは《意志》にほかならぬということを証明してくれた。だが、この原本質なるものは、まったくとらえがたい霧のようなものに思われ、私はそれをどう考えてよいかわからず、したがって—これが私の道徳的混乱をひきおこしたのだが—精神的にも夢のような無責任のうちにあったのである。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P145
ブルーノ・ワルターの思想の内側を垣間見る。
すべては私たち個人の思考から生み出されたものであり、他者にはまったく無関係なものだということを僕たちは知らねばならない。そして、この雲を掴むような感覚こそが真であり。物そのものは仮であることも知らねばならない。
若きワルターは現世に迷ったのだ。
ついには、およそ仮象にすぎない現実のさなかの確固としたよりどころ、ほんとうに存在し—ただ自分自身だけを確信しながら—まわりの夢の世界を眺めている自我などというものは、まるきり存在しなくなってしまった。いったい自我とは、まったく疑う余地のない、分割されえないものだろうか。人間のなかには、われわれみながあまりにもよく知っている《それ》が存在するのではないだろうか。「私は外出したい。しかし、私のなかのそれが、家にとどまりたがっている」というのに似た感情を、いち度も味わったことのない人がいるだろうか。ずっとのちにマーラーは、「いったい私たちの心のなかの何ものが、考えているのだろうか。私たちの心のなかの何ものが、行動するのだろうか」と、書いてよこした。自己破壊的な私の思いなやみは、予感に満ちたそのような疑惑にのみとどまってはいなかった、—およそ自我というものを否定する或るドイツ哲学の理論に、近づいていったのである。
~同上書P145-146
意識と霊性が別個のものだということ(私だと認識している「私」は真の私ではないということ)をマーラーは見抜いていた。同様にワルターの思考もその域に達していたことがわかる。
しかし、時代が早過ぎた。そして、生まれ育った国、地域がその解決に至る術を与えるところになかった。
ブルーノ・ワルターのマーラーは美しい。
その美は、現世の迷いの中にある美であり、悟りの一歩手前まで足を踏み入れたワルターの無意識の意志だった。
交響曲第2番「復活」を聴いた。
いまだ思想的には未熟だった10代の僕は、一時期、ワルターの指揮する「復活」交響曲を繰り返し聴いていた。
ワルターの回想録の中にある上記の言葉の真意は還暦を超えた今ならとてもよくわかる。
音楽も私が思い浮かべる表象であり、そこには演奏する側の個人的な意志が一気通貫しており、同時にそれを受け取る聴衆の意志が掛け合わされているのだ。
それは、あくまで「仮の世界」での戯れであり、それゆえに賛否両論あり、絶対はない。
かつて感動したワルターのマーラーに今もって感動するのはある種刷り込みかもしれない。
ただ、80歳を超えたワルターの創造した老練の音楽が、「まったくとらえがたい霧のようなもの」に感じられ、それゆえに美しい音楽として成立しているのだということが腑に落ちたとき、ようやくマーラーの音楽はわかるのかもしれない。
第4楽章「原光」の一節はこうだ。
私は神のもとから来て、また神のもとへ帰るのだ!
マーラーがおそらく原本質を表現しようとした音楽の意味深さ(慈しみ!)。
創造主の本に帰還することを願ったマーラーも、そしてワルターもついに帰ることはできなかったのだが・・・、その悲哀が音楽に(意識せずとも)刻印される。
そして、ついに崇高な終楽章の音楽へと引き継がれるのだ。
(個人的には最後の合唱とソプラノ、コントラルトの掛け合いのあたりから途轍もないシンパシーを覚えるのだ)
私は生きるために死のう!
よみがえる、そうだ、おまえはよみがえるだろう、
わが心よ、ただちに!
果してすでに生まれ変わっているであろうマーラーの魂は、神のもとへと帰るパスポートを得られただろうか?
グスタフ・マーラー165回目の生誕日に。
