宙から音を紡ぎ出すが如くの立ち上がり。
何て屈託のない無垢な音楽。何て優雅な指揮姿。無から音楽が生み出される妙。
コルネリウス・マイスターという指揮者を初めて聴いた。実に丁寧な音楽作り。それでいて余計な力が抜け、至純の音楽だけが鳴り響く。
ヨーゼフ・ハイドンの初期の交響曲の可憐な音に痺れた。
なるほど4楽章の交響曲の型を生み出した作曲家の自信と確信に満ちた、そして大自然を謳歌するような愉悦の音楽。何という喜び!第1楽章アダージョの序奏から有機的な、そして透明感のある響き。チェンバロが軽やかに鳴り、木管群が自然の音を醸す。また、第2楽章のあまりに美しい安らかさ。そして、第3楽章メヌエットの楽観とトリオに見る軽やかな憂愁。この対比こそ後世の作曲家に影響を与えたであろう技。終楽章アレグロも速過ぎず遅過ぎず、めくるめく音楽の宝庫。ここには古典の原点があった。
何より独奏の活躍する交響曲だけに、読響の各奏者の腕前に感動した。あるいはマイスターの作曲家への絶大なる奉仕。
読売日本交響楽団第560回定期演奏会
2016年7月14日(木)19時開演
サントリーホール
小森谷巧(コンサートマスター)
コルネリウス・マイスター指揮読売日本交響楽団
・ハイドン:交響曲第6番ニ長調Hob.I:6「朝」
休憩
・マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
15分の休憩の後のマーラー。
おおよそ140年の時を経ての人間の理性の拡大と、おそらく感性の縮小の現実化。
音楽の進化と退化の波状攻撃。知識を蓄えたがゆえの枠と、その枠を破壊しようと躍起になるも結局は破り切れなかった悲哀。そんなことを思いながら僕は80分を過した。
ベートーヴェンは人生を喜劇と捉えたが、マーラーにとってそれは悲劇であった。彼が、この交響曲に「悲劇的」という呼称を付けたからかどうなのか、それはわからないが、指揮者が没頭すればするほど音楽は一層生き生きと輝きを増した(これは死への憧憬でも死の象徴でもない、あくまで生を謳歌し、愛の獲得の音楽だ)。こういう矛盾こそがマーラーの独壇場であり、彼の音楽の醍醐味でもある。しかも、(特に終楽章などは)再生が荒くなればなるほど、何だか有機性を帯びるように僕には感じられたゆえ、ある意味支離滅裂であればあるほどマーラーの音楽は生命力を持つのである。
素晴らしかったのは前半2つの楽章。
実演ならではのカウベルの音も舞台裏の打楽器の音も不思議に僕は意味深く感知することができた。第2楽章アンダンテ・モデラートの虚ろでありながら情緒的な音楽に当時のマーラーの幸福を思った。第3楽章スケルツォを経て長い終楽章の葛藤はそれこそ後の悲劇を予感するような厳しいものだ。
おそらくここにあるのはマーラーの「思考の現実化」。
幸福の絶頂のときにあえて「悲劇的」なる交響曲を書くものだから・・・。
そんな内面の矛盾を見事に音化したコルネリウス・マイスターに拍手喝采。
ところで、絶賛すべきは今宵の聴衆の質。
ハイドンはほとんど間髪入れずに楽章がつながれ、息を凝らすほどに優しく繊細に奏されたこともあるのか、対応が実に大人で素敵。そして、マーラーでもマイスターの惚れ惚れするような丁寧な指揮に、フライング・ブラヴォーはおろか余計な咳き込みなども遠慮がちだったように思われた。
指揮者のタクトが降りての数秒の間の儚い美しさ!!
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マーラーの6番の生演奏を東京で何回も聴きに行っていますが、休憩時間に見知らぬ隣席の人から「6番は本当にいい曲ですよねぇ」と話しかけられて、我が意を得たりと、うれしくなったことが2回もあったことを思い出しました。普通そういう体験はありそうでめったにないものなので・・・。
でも、この曲の1楽章のトランペットソロは難所らしくて、ベルリンPOのような名門オケでも国内一流オケでも、ひっくり返る可能性が高いです。もし、ひっくり返らない演奏を聴けたのなら、それだけでもラッキーですね(笑)。
>雅之様
2度もですか!さすがです。
雅之さんはいかにも同意いただけるような柔らかい雰囲気をお持ちですから。
ところで、昨日はオケも健闘で、目立った瑕はありませんでした。
端整で美しい演奏でした。
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