
スカラ座「指環」は舞台上演の記録であり、ローマ「指環」は1幕ずつ10日間にわたる演奏会形式でのコンサート記録である。この貴重な録音は、古いものながら実に生々しく、フルトヴェングラーのワーグナーの素晴らしさ(歓喜と熱狂と)が如実に伝わるものだ。

もう一つの《指環》は、1953年の秋にローマにおいてスタジオに招待された聴衆を前にして演奏されたものだった。このときは4作のオペラが10月26日から11月27日までの間に、1日に1幕ずつ10夜にわたって演奏され、テープに収録された。ドレスリハーサルもテープ録音され、これは放送用のマスターテープを作る際の選択肢を増やすためだった。そして、すべてのテープから、もっともよくできた部分が抽出され、編集された。
~サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P327
歌手にもオーケストラにも余力が残され、完璧な演奏が繰り広げられたローマ「指環」は、翌年から始まるEMIへのスタジオ録音のリハーサルという位置づけだったという。

しかし、フルトヴェングラーの「指環」全曲スタジオ録音の計画は、指揮者の急逝により頓挫する。結果的に残されたローマ「指環」は(スカラ座の方も)、歌手の契約の関係で長きにわたって封印され、陽の目を見ることがなかった。
1971年後半のこの緊張した時期について、フルトヴェングラー夫人はこう回想している。
フィリップスが発売しようと決めるとようやく、EMIは重い腰を上げたのです。この録音の発売にあたっては何も宣伝しませんでした。EMI/HMVのドイツ部門であるエレクトローラが、まだ契約関係にあったカラヤンとの間で揉め事になるのを望まなかったからです。当時カラヤンの《指環》全曲盤が(DGから)出ていたからです。でも、いずれにしても新聞はレコードのことを書きたてました。そのため急に注目されるようになってしまい、とてもよく売れました。これには私も驚きました。最初がショルティ、次にカラヤン、それから最後にフルトヴェングラーという順で発売されたわけでしたから。
~同上書P329
リリースに当っての経緯は複雑だが、フルトヴェングラーの「指環」は世界中で大いなる好意をもって迎えられた。そして、半世紀以上経た今も、これらの録音は人気を博している。
果してフルトヴェングラーの「指環」の魔力とは何ぞや?
この2セットの録音からフルトヴェングラーが示す、他の指揮者たちの《指環》解釈と際立って異なっている点は、この4部作にある果てしない運命の転移の連続感を生き生きと描写する的確な才能にある。フルトヴェングラー夫人も、彼がヴァーグナーの話をするとき、「流れ」という言葉をよく使っていたと記憶している。たしかに、どうにも止められないうねりの感覚が両方の《指環》に生命を与えている。
~同上書P338
「うねりの感覚」こそフルトヴェングラーの真髄であり、ワーグナーを再生するときのキーワードたるものだろう。
この「黄昏」は究極の熱波を放つ。
もはや1年後には亡くなるとは思えないフルトヴェングラーの最後の輝きといっても言い過ぎではなかろう。さすがに一幕ずつの上演であるせいか歌手もオーケストラも最高の様相を示す。
個人的には第2幕のギービヒ家でのきな臭い思惑のぶつかり合い、腹の底に溜める憎悪の発露など(人間模様を)、ワーグナーの悪魔的音楽をうねりをもって見事に再生するフルトヴェングラーの凄まじい気迫とオーケストラ・コントロールの力量に舌を巻く。
(終演後の聴衆の雄叫びと感動の拍手喝采!)
もちろん終幕終盤の「ジークフリートの死」から「ブリュンヒルデの自己犠牲」にかけての神々しさと生命力は天下一品!
芸術的形成過程の内部において、全体の統一から出発する方向にとって基盤となるもの、それを私たちはここで、あえて一つの名をあたえるため、「ヴィジョン」と呼ぶことにしたい。それは全体についての多かれ少なかれ明確な表象である。芸術にとって、ヴィジョンは彼の制作において、およそ制作そのものは状態ではなく、戦いと勝利をともなう活動なのであるから、彼の到達しようとする目標となり、彼をして、対象のあらゆる方向へといざなう誘惑や邪道を通りぬけさせる導きの星となる。それは彼に、彼自身は意識せずとも、いかにしてこれらのさまざまな力を統一すべきかの手引きを提供する。だからヴィジョンは、完成した作品においてのみ全面的に認められるであろう。しかもこのことは純粋な受容者にとってだけではなく、—ここが非常に重要なのであるが—創造する芸術家自身にとっても妥当する。なぜなら全体に発するヴィジョンとは、個々の、素材からじかに発生する力との出会いにおいて、はじめて真に生命へと目覚めるからである。
「一音楽家の時代的考察」(1915)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P72-73
リヒャルト・ワーグナーとヴィルヘルム・フルトヴェングラーの「ヴィジョン」が重なり合った証がここにあるのだと僕には感じられる。もちろんそれは、齢61になった受容者としての僕のヴィジョンとも一致する。
音楽作品を享受する楽しみの一つは、「三位一体(作曲家、演奏家、そして聴く者)的統一感」なのだと痛感する。



