
少なくとも音楽に対してはユニバーサルな思考を持っていたのがトスカニーニその人だった。
ドイツ人、イタリア人、フランス人、或いはアメリカ人によって作曲されるかも知れないが、自分にとってそれは重要ではない。それは、良い音楽かそれとも悪い音楽かである。(略)同じことが現代音楽に対立するものとしての古典派について言うことができる。音楽はワインとは違う。それは年を重ねるごとに良さを増して来ない。一方、長く保ち過ぎるとだめになり得る卵とも違う。もちろん、時折、音楽の本当の価値が、作曲後何年も経つまで認められないことがある。良いまたは悪い、新しい音楽があるのと全く同じように、良い古い音楽があり、悪い古い音楽がある。音楽を聴く時に最も重要な要件は、開かれた心だ。私は、或る曲を初めて聞く時、訓練を受けていない平均的な聞き手の立場に自分を置くように努める。結局のところ、音楽は、プロの音楽家の楽しみのためにではなく、教養のある音楽愛好者のために作曲される。私は、或る曲を初めて聞いている間に、それを細大漏らさず何でも分析する音楽家を多く知っている。これは誤りだ。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(上)」(アルファベータブックス)P548
トスカニーニの懐の大きさは、ジャンルを超えて「良い音楽と悪い音楽」という比較の中でのみ音楽を論じていることからもよくわかる。
「『私はジャズに興味がある—実際のところ、それのまさに最初から興味を持ってきた。(略)その中の意外な事が私の心に訴える。しかし、全く無価値のジャズ音楽が多くある。私は、素晴らしいジャズバンドの多数の蓄音機用録音を持っており、たくさんの新しいレコード盤を買ったところだ』」。このテーマについての彼の考え方は、彼より若い同職者のブルーノ・ワルターの考え方と非常に異なった。ワルターは20年後でも、ジャズを西洋文明に有害だと言っていた。トスカニーニはまた、アメリカに於ける民族と文化の混合は、欧州に対する音楽的優位をアメリカに与えていると、ウルフに告げた。なぜなら「『作用する単一の支配的要素が無い』からだ。アメリカのオーケストラが世界中からの才能ある人材に頼れるという事実は好材料だった、聴衆の性質もそうだったが。聴衆は、「『構成があまりに寄せ集めなので、いかなる一種類の音楽にも満足しないだろう。これは、多彩な演目を生み出し、それが今度は世界主義的な嗜好の創造につながる』」。
~同上書P548-549
分断から統合へ、なるほど、実に納得できる考えだ。
そしてまた、ファシズムに対抗し、祖国を捨てた(?)トスカニーニらしい言葉だ。
1943年7月、トスカニーニは、ムッソリーニが失脚したとき、拍手して喜んだという。
太平洋戦争激戦期。
連合国軍が圧倒的な強さを見せ始めた頃だというのもあるのか、この鎮魂曲は異常なほどのテンションを誇り、聴く者を圧倒する。歌詞が英語訳だというハンデはあるが、音楽に没入する指揮者と奏者の、ほとんど一期一会ともいえる気合いに言葉を失う。
時代の空気感までもが刻まれたこの録音は、トスカニーニの内なる情感のすべてを表出する名演奏。ワルターの正規録音とも、あるいはフルトヴェングラーのライヴ録音とも質を異にする、あまりに劇的な表現だ。


強力な意志と強烈な熱狂。
聴衆に「音楽とはかくあらん」と示さんとばかりにトスカニーニは咆える。
これほどまでに主観的なブラームスであったがゆえに8Hスタジオの聴衆は焼け焦げてしまったのではないかと思うほど。終演後の拍手喝采が演奏の素晴らしさを物語る。