協奏曲を聴く愉しみの一つに、独奏者のカデンツァがある。
古は作曲者だけでなく、演奏者も自らのカデンツァを引っ提げて舞台に登場した。
今でも僕は、演奏会で珍しいカデンツァが弾かれるとなると魂が喜び、心が躍る。
音楽は観るものだ。実演はもちろんのこと映像で視聴するときは、音だけを耳で追うときと比べ、情報量が多い分、音楽に対する理解が一層深くなる。目で聴くことが大事なんだと思う。
もし眼が太陽のようでなかったら、
どうしてわれわれは光を見ることができるだろうか。
もしわれわれの内部に神みずからの力が宿っていなければ、
どうして神的なものがわれわれを歓喜させることができるだろうか。
光と眼のかの直接的な親近関係を否定する者はいないであろう。しかし両者を同時に同一のものとして考えることは、ずっと困難である。とはいえ、次のように主張すればわかりやすくなるであろう。すなわち、眼の中には静止した光が潜在していて、内部あるいは外部からのほんのちょっとした刺激がきっかけで誘発されるのである。われわれは暗闇の中で、想像力の要請によって著しく明るい像を呼び起こすことができる。
~ゲーテ/木村直司訳「色彩論」(ちくま学芸文庫)P113-114
ゲーテはかく言う。なるほど、僕たちはイマジネーションという目を持っている。
ひとたび理解した後は、音楽も「神力」という想像力でもって聴くが良い。
ダニエル・バレンボイムのモーツァルトのソナタはいずれも自然体の素晴らしさを誇る。しかし、協奏曲は作品によって受ける感銘の差が激しい。
例えば、僕はこれまで、「戴冠式」と称するニ長調協奏曲に関し、これぞという名演奏に遭ったことがなかった。若きバレンボイムがイギリス室内管と録音したもの然り、また、壮年の彼がベルリン・フィルと録音したもの然り。
久しぶりに映像を観て、「戴冠式」協奏曲の、コマーシャルで浅薄な印象は相変わらず拭えないものの、その堂々たる響きと、ベルリン・フィルと一体となって弾き振りで奏するバレンボイムの実にきれいで実直なピアノの音に感動した。カデンツァは、ワンダ・ランドフスカ作。
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調K.537「戴冠式」
ダニエル・バレンボイム(指揮・ピアノ)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1989.1収録)
何だかとても懐かしい。
モーツァルト特有の遊びの精神と、同時に心底に潜む悲しみと、あらゆる人間感情の機微が短い中に凝縮される様。ランドフスカの、カデンツァについての次の文章を読み、僕は納得した。
ほんとうのところ、カデンツァとはなんだろうか。
それは、すでに生起したことをいまいちど即興的に暗示すること、あるいはそれを振り返って眺めることなのかもしれない。あるいはまた、われわれの好きな、もういちど見られればうれしいと思うような懐かしい場所を、そぞろ歩いてみることなのかしれない。
(ドニーズ・レストウ編/鍋島元子、大島かおり訳「ランドフスカ音楽論集」(みすず書房))
~「ピアニスト久元祐子Webサイト」から引用
第2楽章ラルゲットでの、バレンボイムのピアノは、モーツァルト自身が弾くかの如く寂しくも可憐だ。当時、困窮の中、この作品はまさに「お金のため」に書かれたが、もはや人気の低迷していたモーツァルトにウィーンでの予約演奏会はままならず、初演は1年以上後、ドレスデンでの宮廷演奏会まで待たねばならなかった。
それでも終楽章アレグレットは歌う。これぞモーツァルトの妙。
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