クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルの「マイスタージンガー」(1950&51録音)を聴いて思ふ

僕が初めて手にしたワーグナーの楽劇全曲盤は、意外にも「マイスタージンガー」である。確か1984年のこと。「幻の名盤」といわれ、当時、国内盤初登場であったクナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルによるアナログ盤5枚組セット(L00C-5326/30)。それは、今も僕の手元にある。

当時は、作曲家に対する知識、彼の音楽だけでなく多岐にわたる文献、及びその歴史的背景など、知らないことばかりの中で、4時間以上にも及ぶ全曲(重要な第3幕だけで2時間近くを要する!)を聴き通すことはままならなかった。ましてや音のみのワーグナー、CD時代になってすら手に入れた音盤(20余年前!)をぶっ通しで聴いたことは(聴けたことは)なかったのではないだろうか(もはや僕にそんな時間的余裕はなかった)。

リヒャルト・ワーグナー晩年の「再生論著作」、すなわち「宗教と芸術」(1880)、及び3つの補足「この認識は何の役に立つのか」(1880)、「汝自身を知れ」(1881)、「英雄精神とキリスト教」(1881)を繰り返し読み、彼の驚くべき先見と、一方で、少々間違った(であろう)人種論に対する偏見を知り、多少の考察ができたことで、今、「マイスタージンガー」の意味、意義が別の観点から理解できたように思う。

人類の没落が、肉食による肉体の変質から生じたものだという説をワーグナーは幾度も引くが、アルチュール・ゴビノー伯爵の、全く別の視点からの言説にさらなる衝撃を受け、彼は補足その3として「英雄精神とキリスト教」を上梓した。

彼は人類というものが相互に和解しえないほど不平等な人種から成り立っており、この人種のなかでもっとも高貴な人種がそうでない人種を支配しながらも、混血によって劣等種の水準を高めることにはならないで、むしろ劣化させてしまったと主張しているが、彼の主張の正当性を私たちとしては認めないわけにはいかない。
三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P324

ナチスに利用された人種差別の源がこの論文にあるように見受けられるが、しかし、ワーグナーはゴビノーの論に同調しつつも、決して武力による下等人種(?)の抹殺を謳っていたのではないこともわかる。

それにしても人類は完全に平等となるべく定められている、という想定が途方もないものであることを見誤らないようにしようではないか。そしてゴビノーがその著書の末尾で描き出さざるを得なかったように、私たちがそうした平等をぞっとするような様相においてしか思い浮かべられないことも告白しておこう。だがそうした状況は、私たちがそれを現代文化や現代文明の靄を通してしか眼にできない、ということによって初めて完全に厭わしいものとなるのである。
~同上書P336

この大事な箇所こそが、ワーグナーが本性では人類救済の真の術を理解していたことを示すものだろう。そして、彼は未来に希望を託す。

本稿であらまし描いたのは私たちを暗澹とさせるようなことばかりであるが、それにもかかわらず私たちは人類の未来に向けて勇気づけられるような展望を得たいのであり、そのためには現在もなお残されている素質とそれを生かすことで引き出される可能性を追求することこそが、他のいかなることにもまして私たちにとって切実な課題となってくるのである。
~同上書P338

この小論でワーグナーが最後に結論づけるのは、人類を真の平等に導くのは、それこそ真の宗教であり、それは若年の頃の「革命思想」とは異なるもので、いわば「精神の革命」によってしか成され得ないのだと説くのである。

それにしても、彼が死の2日前から書き始めたとされる「人間性における女性的なものについて」という論考が、未完に終わったことが悔やまれる(間違いなく彼には現代の、女性性の時代の到来が予知できていただろうゆえ)。

「マイスタージンガー」第3幕を聴く。

・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
パウル・シェフラー(ハンス・ザックス、バス・バリトン)
オットー・エーデルマン(ファイト・ポーグナー、バス)
フーゴー・マイヤー=ヴェルフィング(クンツ・フォーゲルゲザング、テノール)
ヴィルヘルム・フェルデン(コンラート・ナハティガル、バス)
カール・デンヒ(ジクストゥス・ベックメッサー、バリトン)
アルフレート・ペル(フリッツ・コートナー、バリトン)
エーリヒ・マイクト(バルタザール・ツォルン、テノール)
ヴェイリアム・ヴェルクニク(ウルリヒ・アイスリンガー、テノール)
ヘルマン・ガロス(アウグスティン・モーザー、テノール)
ハラルト・プレーグルヘフ(ヘルマン・オルテル&夜警、バス)
リュボミール・パンチェフ(ハンス・フォルツ、バス)
フランツ・ビールバッハ(ハンス・シュヴァルツ、バス)
ギュンター・トゥレプトウ(ヴァルター・フォン・シュトルツィング、テノール)
アントン・デルモータ(ダーヴィット、テノール)
ヒルデ・ギューデン(エーファ、ソプラノ)
エルゼ・シュールホフ(マグダレーネ、ソプラノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1950&1951.9録音)

録音のクナッパーツブッシュは正直大人しい。
しかし、デッカの優秀録音によって残された彼のワーグナーには、もちろん彼にしか作れないうねりがある。それは、ワーグナーに対する愛だ。
ちなみに、第5場最後の大団円で、ヴァルターはマイスターの称号を受けとることを固辞する。

マイスターはいやです、いやです。
マイスターなしに幸福でありたい。

そして、その言葉を遮るように、ザックスが次のように諭す。

マイスターたちをあなどらないで、
彼らの芸術を尊敬しなさい。
高くたたえられる彼らのいさおしは
あなたにもゆたかに恵みとなるのです。

このやりとりは一体何を示すのか?
地位や名誉や称号は記号に過ぎず、真の幸福は精神革命ののちに現われる「真の宗教」(宗教という言葉の是非はともかくとして)を取り戻すことだと、晩年、ワーグナーは行き着いたが(「マイスタージンガー」を書き上げたとき、「再生論」には至っていないが、たぶんそれに近いところまでワーグナーの意識は到達していたのではないかと推測する)、そのことにつながる思想の片鱗がまさにヴァルターの言葉にあるのだと僕は思うのである。

「マイスタージンガー」は、ヒトラーによって解釈を歪められたが、単なる喜劇でもなく、単なるドイツ精神の賞揚のためのドラマでもない。力強く奏される、民衆による最後の合唱は、迷えるリヒャルト・ワーグナーの深層を表すようで、どこか空しい。

歌詞対訳は、渡辺護1983年6月訳補訂による。

 

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