アンドリュー・デイヴィス指揮BBC響 ヴォーン・ウィリアムズ 田園交響曲(1996.3録音)

レイフ・ヴォーン・ウィリアムズは無神論者だったという。

芸術感得におけるこうしたほとんど超常的ともいえる要素と同時に、ヴォーン・ウィリアムズは音楽の神秘的な機能に惹かれた—そうしたものは、宗教の代用物というレッテルを貼られやすいのだが—。そして、ことによると同じ理由で、音楽が予言をおこなったり、少なくとも予言めいた発話の手段にもちいられるという面にも関心を寄せた。彼の音楽のなかで、この特徴は晩年にもっとも明確にあらわれてくる。それは反戦カンタータ《われらに平安をあたえたまえ(Dona Nobis Pacem)》や驚くべき交響曲第6番などであり、後者では、彼はまるで核戦争による終末のあとの世界を見ているようだ(彼はこのことを強く否定したが)。晩年、この二つの作品を書きおえたのち、彼は学童たちにこう話した—「音楽は、科学にはない方法で、事実の向う側にあるものごとの本質そのものを見抜く力を、あなたたちにあたえてくれます。芸術とは、私たちが魔法の開き窓を覗いて、その先にあるものを発見するための手段なのです」。
サイモン・ヘファー著/小町碧・高橋宣也訳「レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ 〈イギリスの声〉をもとめて」(アルテス)P25

暗澹たる、ある意味難解な交響曲第6番の真髄が、その意味が、本人がどんなに否定しようとも「彼はまるで核戦争による終末のあとの世界を見ているようだ」という言葉に集約されているように僕も思う。

現実派だったヴォーン・ウィリアムズにとって神の御業よりも人による革新的技術にこそ驚嘆の価値があった。1922年初夏、《田園交響曲》のアメリカ初演のため合衆国を訪れたヴォーン・ウィリアムズは友人ホルストに宛て、次のような手紙を書いている。

私は(a)ナイアガラの滝と(b)ウールワースのビルを観光して、(b)にいちばん感心しました。神のみわざより、人間のわざのほうが恐るべしという結論に私はいたったのです。
~同上書P89

果たしてこれが本心なのかウィットに富んだジョークなのかわからないが、自然讃歌溢れる彼の作品を聴くにつけ、彼の内に神を否定する意志はなかったのではないかと僕は思う。

・ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第3番「田園交響曲」(1918-21)
ガレス・ブリムソン(トランペット)
パトリシア・ロザリオ(ソプラノ)
サー・アンドリュー・デイヴィス指揮BBC交響楽団(1996.3録音)

そこかしこに薫る民謡風の旋律に不思議な懐かしさを覚える。
間違いなくここにはヴォーン・ウィリアムズの敬虔な心が投影されると思えるが、作曲家の真意はいかに。

とりわけ、第2楽章にある消灯ラッパのまちがって吹かれるオクターヴほど明確なヒントは無い。これはソールズベリー草原でヴォーン・ウィリアムズが聴いた、ラッパ吹きがまちがえて吹いた音を反映している。とはいえ、《田園交響曲》という曲名を付けることにより、みずから誤解を招いてしまったところもある。第1楽章は、自然界の美しさよりは平静さを表現しているが、この平静は、厚いオーケストラのテクスチュアにより、覆いかぶさってくるような、ほとんど圧迫的なところもある。この平静さは第2楽章の暗くなった音調により追い払われ、多少は残ったとしても、それは満足ではなく悲嘆からくる静穏である。
~同上書P87

音楽はどこまでも美しい。
特に、終楽章レント—モデラート・マエストーソ—レントにおけるソプラノのヴォカリーズの妙なる天国的な調べに僕の心は弾み、何とも癒される。

そういえばPeter GabrielはRVWにインスパイアされ、”Solsbury Hill”を書いたのだろうか。

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