
依存からの脱却が、その人の人生を一変させる。おそらくそれが、誰しもの課題なのだと思う。
ドメニコの前半生が謎めいていて、彼が明らかに個人的にも音楽的にも父親の支配的な影響下にあったことを考えると、これらを現代の心理学的な観点から解釈してみたいという誘惑にかられる。しかしここでは、父親の死後3年を経てドメニコの人生が完全に変化した、という外見的な兆候を指摘するだけで満足すべきであろう。1728年5月15日、ローマ郊外に建つ聖パンクラツィオ教会の聖母被昇天の祭壇の前で、彼はいずれもローマ出身であるフランチェスコ・マリア・ジェンティーリとマルガリータ・ロセッティの娘、マリア・カタリーナ・ジェンティーリと結婚した。ドメニコ・スカルラッティはかれこれ43歳になろうとしていたが、新婦は16歳であった(彼女は1712年11月13日生まれであった)。
~ラルフ・カークパトリック著/原田宏司監訳・門野良典訳「ドメニコ・スカルラッティ」(音楽之友社)P92-93
ドメニコ・スカルラッティの人生をひもといたとき、思い出すのはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの人生。モーツァルトの場合も父の呪縛から逃れたときの「覚醒」が、作品に多大な哲学性をもたらした。
ひょっとするとドメニコとヴォルフガング・アマデウスの魂は双子なのかもしれぬ。革新の中にある調和、それこそが二人の天才の共通の主題だったのではなかろうか。
ドメニコがマリア・バルバラに従ってスペインに赴くように言われたのはこの時だったかもしれない。おそらく、マリア・バルバラ自身が要請したのであろう。彼女の音楽への情熱は、一部に生得的で自然な成り行きであったにせよ、その形成期にドメニコ・スカルラッティと緊密な関係にあったことでさらに強められたに違いない。さらには、有能な弟子に定常的に接し、彼女を上達させるために作品を提供し続けたことが、ハープシコード作曲家としてのドメニコ自身の発展を刺激したとも考えられる。
~同上書P95
バッハの鍵盤音楽に劣らぬ厳しさ。陰陽併せ持つ零的精神。
久しぶりにスコット・ロスのソナタ全集から1枚。
外見は溌剌なのだが、内なる音調の苦悩はスカルラッティの音楽の核なのか、それともスコット・ロスの演奏の真意なのか。
音楽は大きく揺れる。18世紀前半にしてはやっぱりすべてが新しい。その意味ではバッハすら凌駕する創造の妙技。
この生涯にわたる交流への彼女(マリア・バルバラ)の感謝の念は、何年も経た後、遺言状の中で「私の音楽の師であり、この上ない熱心さと忠誠をもって仕えてくれたドミンゴ・エスカルラーティ氏」に指輪と金貨2000ダブロンを遺贈する、と記した彼女の心意気に現れている。
~同上書P88-89
僕が何か批評するまでもない夭折のロスの、一世一代の金字塔。
今年はスコット・ロスが没して早30年の年。そして、世界の大変革の年であろう今。来月施行の新年号は「令和」だと。当を得たり。