メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管 バッハ「マタイ受難曲」(1939.4.2Live)を聴いて思ふ

人の思考の多様さを思う。
ただし、そこには真理はない。
一方、音楽、否、音そのものには真理があるのかも知れぬ。しかし、残念にも、それを他人に、あるいは後世に伝えるために記号化した時点で真理は消える。聖書然り、仏典然り。

実際、レコードを聴いてみると、この解説は掛け値なしに演奏の真実を表現していた。
往年のオランダの名指揮者・メンゲルベルクの指揮による演奏は、哀しくも美しく、切々と胸に迫ってくる。とりわけヴァイオリン・ソロの調べに乗って歌われるアルトの有名なアリア「憐れみ給え、わが神よ」に至っては、悲痛な感さえたたえ、聴衆のすすり泣きはざわめきにも近いほどに昂まっている。
私はこのレコードを何度聴いたろうか。数年後、カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるマタイ受難曲全曲演奏のステレオ盤を買ったけれど、心をゆさぶられたという点では、メンゲルベルク指揮のほうがはるかに重みを持っている。
オランダは、その後ナチス・ドイツの侵攻を受けて蹂躙され、ユダヤ人の少女アンネ・フランクとその一家の悲劇も生じることになる。演奏の昂まりというものは、そうした時代背景と無縁でないことを、メンゲルベルク指揮のマタイ受難曲は伝えている。

「人生の一枚のレコード」
柳田邦男「かけがえのない日々」(新潮文庫)P195-196

歴史的ドキュメントに素直に耳を傾け、しかも感動に打ち震える柳田さんの感性に僕は感激する。もちろんヴィレム・メンゲルベルク指揮によるバッハ畢生の大作「マタイ受難曲」にもだ。

この演奏に感動して涙する若い聴き手がいると聞くのだが、そういう人はどうやって耳の抵抗を克服しているのか、知りたいものである。
私にもっとも抵抗があるのは、テンポの凄いばかりの伸び縮み(ルバート)である。フレーズのここというサビの部分で判で押したように盛大なテヌートがかかり、テンポがいったん止まったような感じになる。そしてフレーズの末尾には、大きなリタルダンドがつく。そのため、整った拍節感とアクセントの利いたリズム感という、バロック/バッハの基本とはまったく違った方向に、演奏が向かっている。聴いていて途方に暮れるというのが、正直なところである。

礒山雅「マタイ受難曲」(東京書籍)P447

一方、礒山雅さんのこの直接的批判にも僕は納得した。
礒山さんは耳が良過ぎるのである。学者肌の彼は、耳という器官に頼り過ぎているともいえる。その意味では「思考・感情の鎧」を脱ぐのに手こずるタイプの人だろう。といって柳田さんの耳が悪いと言いたいのではない。柳田さんはむしろ簡単に「思考・感情の鎧」を脱げるのだ。彼は、感覚で捉える術に長けているのだ。

何にせよ人為には一つの明確な答はない。
すべては正しく、また、すべては間違っている。

・J.S.バッハ:マタイ受難曲BWV244
カール・エルプ(福音史家、テノール)
ヴィレム・ラヴェッリ(イエス、バス)
ヨー・フィンセント(ソプラノ)
イローナ・ドゥリゴ(アルト)
ルイ・ファン・トゥルダー(アリア、テノール)
ヘルマン・シャイ(アリア、バス)
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
ツァンクルスト少年合唱団
ヴィレム・メンゲルベルク指揮王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1939.4.2Live)

第27曲アリア「いまイエスは捕えられた」の、あまりの激しい二重唱と合唱の阿鼻叫喚に僕の魂は震撼する。何という暗く、また重い、絶望の音楽なのだろう。
また、柳田邦男さんの心を奪った第39曲アルトのアリア「憐れみ給え、わが神よ」は、冒頭のポルタメントのかかったヴァイオリン・ソロが異様な色香を散らし、そこに絡むイローナ・ドゥリゴの渾身の歌唱が切なく、実に美しい。
そして、いかにも大袈裟な、19世紀的浪漫に色塗られた終曲合唱「涙ながらに跪き」にも、内なる安寧がある。そこには間違いなく時代の空気の支配があるのだが、それにしてもこれほどの人間臭い一世一代のドラマが他にあろうか。たぶん、後にも先にもない。

ちなみに、PHILIPS盤オーパス蔵復刻盤を聴き比べてみると面白い。
前者の迫力を削がれた(整理整頓され尽くしたともいえる)、摺りガラスの向こう側で鳴るような音に対し、SPレコードを極めて丁寧に復刻した後者の音は、直接的でリアル。80年前の実況録音が、これほどまでに生々しく響くとは、恐るべし。

私たちは、涙を流しながら、うずくまり、
墓の中のあなたに呼びかけます。
安らかに憩いたまえ、憩いたまえ安らかに!

(秋岡陽訳)

すべては僕の主観。賛成もあれば、反対もあろう。
世界に本当の意味での客観はなし、あるのは主観の同意のみ。

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クラウス指揮ウィーン・フィル ストラヴィンスキー「プルチネルラ」組曲(1952.3.9Live)ほかを聴いて思ふ | アレグロ・コン・ブリオ

[…] 雅な、繊細で高貴な推進力と生命力。 クレメンス・クラウスの音楽に内在するエネルギーの本は、そういうもののように思う。 以前、ウィーン・フィルとの戦時中のムジークフェラインでの、壮絶な「ミサ・ソレムニス」については書いた。予想もしない「キリエ」の悠久のテンポ感と音楽性。ベートーヴェンの本質がこれでもかと語られる「グローリア」に「クレド」。もちろん「サンクトゥス」以降「アニュス・デイ」まで緊張の糸は切れることなく4人の独唱者、そして合唱団とともに楽聖の晩年の内なる小宇宙を見事に再現する様。 戦時という空気もあるのかもしれないが、会場に溢れるであろう緊張感がこれほどに伝わる「ミサ・ソレムニス」を、僕はそれまで聴いたことがなかった。それこそメンゲルベルクの「マタイ受難曲」に匹敵する精神性と危機感、あるいは祈り。 あらためて聴いて、そのことを痛感する。一世一代の名演奏だ。 […]

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