知人から「預言者の言葉」(カリール・ジブラン著)を奨められ、買い求めた。この手の本は熟読するというより、ふと思ったときに開いたページの言葉に何か意味があるように思うので、ちょうど今月の「早わかりクラシック音楽講座」のお題であるJ.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」(ニコラーエワが1983年にデンマークで行ったリサイタルのライブ録音。アンコールは「主よ、人の望みの喜びよ」)を聴きながら、レジュメをある程度まとめ、息抜きにページを開いてみた。
よろこびと悲しみは、
決して切り離して考えることはできません。
よろこびと悲しみはいつも一緒にやってくるのです。
よろこびは、悲しみが仮面をはずした姿だという。うれしいときに、自分の心の底を探ると、以前は自分を悲しませていたものが今では喜びを与えてくれ、逆に悲しいときには、以前は心をはずませていたはずのものに今では涙を流しているということに気づくだろう、と。言葉の真意を汲み取るのはなかなか難しいが、すべては表裏一体。
ニコラーエワの奏でる音楽を耳にして、まさに、バッハ晩年の大作、「ゴルトベルク変奏曲」とは、人間の感情の喜怒哀楽のすべてを表現した傑作であるとあらためて感じる。第25変奏が終わった直後の第26変奏は、突如霧が晴れ、天使が舞い降りるかのような表現が理想なのだが、ケチをつけるとするなら、このライブ盤はそこが弱い。演奏終了後の聴衆の爆発的な拍手を聴くと、途轍もない感動を喚起しているのだと想像できるのだが、いかんせん録音だとそこまでは体感できない。隔靴掻痒の感あり。
東京オペラシティ・コンサートホールで催された宮城敬雄指揮北西ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートを観た。ベートーヴェンの「エグモント」序曲、ヴァイオリン協奏曲(独奏:天満敦子)、そしてブラームスの交響曲第1番という重厚なプログラムであったが、僕のお目当ては天満敦子。以前から評判を聞いていたので、いつかは実演を聴いてみたいと思っていたところ、遂に今夜その機会が訪れた。それも、ベートーヴェンの傑作コンチェルトを弾くというのだから期待するなというのがおかしい。果たして演奏は・・・。
正直に書くと、演奏者の意識(技術も)のズレが大きすぎる(特にコンチェルト!)。1曲目の「エグモント」序曲の出だしで、「お、これはもしやいけるのか?!」と思ったものの、主部に入るなり失速。メイン・プロのブラームスもテンポ感など音楽の作り方は理想的で、オーケストラはそれなりに鳴っているものの指揮者の個性が全く感じられないのが難点。僕は常々、音楽は舞台上の創造者と聴衆とのコミュニケーションだと考えており、指揮者とオケ、そしてソリストと、観客が三位一体となってエネルギーの循環を為した時に得もいわれぬ名演奏が生まれるのだと信じているのだが、今回の場合、三者の息がぴったりと合っていなかったことが最大の問題ではないかと感じた(それは決して個々の、つまり宮城氏の問題でもなく、あるいはオーケストラの問題でもなく、あるいは天満氏の問題でもないということを念のため書いておく。リハーサル時間が足りなかったのか、もともと馬が合わないのか、それはわからない)。それに、J.S.バッハのアリアがアンコールにかけられたのだが、(オケのテクニックは明らかに北西ドイツ・フィルの方が一枚も二枚も上手だが)8月に芸術劇場で観た「宇宿允人&フロイデフィル」のアンコールの方が圧倒的に感銘を与えてくれたことも付け加えておこう。
深夜に、よろこびと悲しみが同時に鳴る音楽。
ブリテン:無伴奏チェロ組曲集、チェロ・ソナタ作品65
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ベンジャミン・ブリテン(ピアノ)
深い深い祈りに満ちた音のタペストリー。バッハのそれと双璧を為す類稀な名曲。楽曲を献呈されたロストロと作曲者自身のピアノによるソナタも秀逸。一家に一枚の隠れた名品です。
※ところで、チケットをプレゼントしてくださったうさきち様ありがとうございました。辛口の感想ですいませんm(_ _)m。本当はもっと賞賛のコメントを書きたかったのですが・・・、演奏者がちょっとバラバラのように感じました。とはいえ、天満敦子さんのヴァイオリンが聴けたことは本当に収穫でした。重ね重ねありがとうございます。
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[…] タルをやっていた。ピアノはアレクサンドル・タロー。すでにプログラム後半のブリテンのチェロ・ソナタ終楽章が始まっていたが、すぐさま釘づけになった。いや、素晴らしかった。 […]