情熱的でありながら何と繊細かつ自由、またインスピレーションに富む音楽であることか。
41歳のマルタ・アルゲリッチが、28歳のリッカルド・シャイーの棒の下、繰り広げるマジックよ。
アメリカでの最後の公演は、奇しくも再びマーラーの指揮によるニューヨークが舞台であり、曲も「ピアノ協奏曲第3番」であった。アメリカ公演を勤めあげ、ロシアに戻った作曲家は、1年あまり後にグスタフ・マーラーの死の報せを受け取ることになる。指揮者としてのマーラーに深い尊敬の念を抱いていたラフマニノフは、ニューヨークで共演した時の思い出をこう語っている。
リハーサルは10時に始まり、わたしは11時に参加することになっていたので、会場に行ったのはちょうどよいころであった。練習は12時近くになってようやく始まった。予定していた時間はあと45分しかなかった。それから何度も何度も練習を重ねたので、時間はとうに過ぎていたのに、マーラーはそんなことは意に介してもいなかった。さらに45分もたって、マーラーは一同に「さあ、第1楽章をもう一度繰り返してみよう」と宣告するのだった。わたしの心臓は凍りついた。おそろしい練習がこれからも続くと予想されたし、オーケストラの団員から抗議が出ると分かっていたからである。しかし、他の交響楽団では、そんなことはよくあったが、ここでは不満の声一つ出なかった。団員は第1楽章を演奏したが、それは前の時よりはるかに曲想に近い、鋭い演奏であった。ようやく終わって、わたしは指揮台に近寄り、2人で曲の検討を始めた。舞台にいた音楽家たちは、銘々の楽器を手にして、静かに立ち去りはじめていた。その時、マーラーは大声でどなった、「いったいどういうつもりなんだ」。「もう1時半ですよ、マイスター。」これにたいしマーラーは「そんなことは問題じゃない。わたしがここに坐っている以上、団員は誰一人として、立ち上がる権利はないんだ」と答えた。
~藤野幸雄「モスクワの憂鬱—スクリャービンとラフマニノフ」(彩流社)P208-209
独裁者グスタフ・マーラーの真骨頂。しかしながら、部下が反発することなく命令を受け入れるならそれは独裁でもなんでもなかろう。ましてやブラックなどでもない。ラフマニノフ同様、オーケストラ団員は指揮者マーラーを心から尊敬し、慕っていたのだろうと思う。果たしてこのときの、最後のコンサートは大成功を収めた。聴衆も幸せだっただろう。何より幸福は、独奏を務めた作曲者自身の中にあったと思う。
奔放なるアルゲリッチの魔法がベルリンのフィルハーモニーに響く。オーケストラとのずれも、多少の乱れも意に介せず、アルゲリッチは歌う。何て美しい音楽なのだろう。
・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番ニ短調作品30
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
リッカルド・シャイー指揮ベルリン放送交響楽団(1982.12.5&6Live)
恍惚の第1楽章アレグロ・マ・ノン・タント。ピアニストの煌めく闊達なピアノに、オーケストラがいぶし銀の響きで応える様。前世紀的な浪漫の炎が内から垣間見えるたびに僕の心はあまりに震える(再現部直前の美しさ!)。そして、ほんの束の間のポーズをとっての第2楽章アダージョ冒頭の空ろなオーケストラの音に感激する(ピアノが登場するシーンでのため息が出るほどの美しさにも、また、クライマックスに向かうときのオーケストラのうねりにも)。アタッカで進む終楽章アラ・ブレーヴェの躍動!!
彼女は41歳で、リサイタルでの緊張を強いられるのはもう勘弁してほしいと思っていた。「ピアノを弾く機械にはなりたくないのです」と、1986年にアルゼンチンのラ・ナシオン紙で宣言した。「ソリストは一人で生き、一人で弾き、一人で食事し、一人で眠ります。わたしはそんなのは願い下げです」それでもマルタにはお気に入りの協奏曲の数々と、無尽蔵の室内楽の貯蓄が残っていた。
~オリヴィエ・ベラミー著/藤本優子訳「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」(音楽之友社)P210
彼女がまさにリサイタルを止めた時期の、お気に入りの協奏曲の名演奏。