マキシム・ヴェンゲーロフ独奏のブラームスの協奏曲は何より自作のカデンツァが聴きものだった。主題をうまく組み合わせ、それでいて単調に陥らず、マキシムならではの味付けの施された正当なもので聴衆を魅了した。
協奏曲の聴きどころのひとつは間違いなくカデンツァだ。元来カデンツァというのはそういうものであるはずなのに、今の時代はほとんどの演奏家が冒険をしない(いや、できないと言った方が正しいか)。もちろん人口に膾炙したヨアヒムやクライスラーのものを使うのは(音楽的にも優れているから)僕的に不満でも何でもないのだが、新しい発見という意味を込めると時に独自のものを聴きたくなるというのも人情。そんな観点で音盤を探すことも多々あるものだから、先日感銘を受けたバティアシュヴィリがフェルッチョ・ブゾーニのカデンツァでブラームスを弾いていると知り、早速手に入れた。
感動した。もちろんカデンツァは素晴らしいのだけれど、それよりも何よりもティーレマン指揮するシュターツカペレ・ドレスデンのさすがの巧さだとか、バティアシュヴィリの独奏の(人工的に付けられたエコーかもしれないが)得も言われぬ美しさに卒倒したのである。ともかく管弦楽前奏の有機的な響きと意外に速めのテンポで押してゆくその潔さに完全に惹き込まれたと言っても言い過ぎでない。第2楽章のオーボエのソロの哀愁感も堪らない。
ブゾーニのカデンツァはまるで「魔笛」の中の夜の女王が登場するシーンのような仰々しさ。そう、打楽器のロールによって「威厳」を表現しようとしたのかどうなのか、そのあたりは不明だが、若干音楽の質と乖離しているように思えなくもない。しかし、バティアシュヴィリの清澄でありながら豊かで静かな響きにより音楽そのものが心に直接に届く。
カップリングは何とクララ・シューマンの「ロマンス」(ヨアヒムに献呈)。この音楽がまた素敵。1853年に作曲されたということだが、その頃のシューマン家の様子を探ろうと、久しぶりに原田光子著「真実なる女性クララ・シューマン」を斜め読みした(この本は最初の出版から早くも40年以上が経過するが、示唆に富んでおり興味深い。もし仮に史実と多少の異同があったとしても、こういった「音楽家の伝記類」は様々なインスピレーションを喚起してくれ、とても貴重だ)。
シューマン夫妻は1853年5月にヨアヒム(当時23歳!)の独奏で初めてベートーヴェンの協奏曲を聴き、大変な感銘を受けたのだと。クララは日記に次のように記す。
「ヨアヒムはその夜の圧巻であった。彼は完璧な技巧と深い詩的情緒のうちに演奏した。一音一音に彼の魂が息づき、私はかつてこのように理想に近いヴァイオリンの演奏をきいたこともないし、またいかなる巨匠からも、このような忘れがたい印象を受けたこともない。霊感に満ちたこの作品が、いかにすばらしく、演奏されたことであろう。管弦楽は聖なる畏敬を感じているかのように思われた」
P169
何という讃辞!
ちなみに、すでにこの頃からロベルトの精神は変調を来しつつあったのだが(あくまで僕の私見だが、この書籍からロベルトの精神疾患の原因のひとつであろう事実を見つけた。いずれまた書く)、ヨアヒムの演奏に触発され、ロベルトはヴァイオリンにまつわる作品をいくつも生み出した。そのことはクララにも当てはまる(「ロマンス」は同年7月に作曲された)。
3つのヴァイオリン曲の可憐な響き。何とも女性らしい美しいメロディは、ちょうどこの頃の彼女の幸福加減が反映されているようで素敵。
ちなみに、同じ年10月1日に20歳のヨハネス・ブラームスがシューマン家を訪問し、世紀の邂逅が起こっている。何と奇跡的な1853年よ!!
しつこく繰り返す。久しぶりにブラームスの協奏曲に聴き惚れた。それほどにこの演奏は素晴らしい。
※バティアシュヴィリが使用するヴァイオリンは、1715年製ストラディヴァリウス「ヨアヒム」である。ヴェンゲーロフが使うのはストラディヴァリウス「クロイツェル」であることを考えると、楽器の違いやその因縁を意識して聴いてみるのも面白いかも・・・。
人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。
にほんブログ村
原田光子さんの「真実なる女性 クララ・シューマン」は1941年の初版から70年余り、ロング・セラーとなっています。日本におけるシューマン、ブラームス受容に大きな役割を果たしたものの、クラーラ・シューマンを神話化したという弊害もあります。シューマン、ブラームスのものの出版は、日本では少ないことが問題ですね。
>畑山千恵子様
あ、確かに初版からするともう70年以上ですか・・・。40年どころじゃないですよね・・・。
ご指摘ありがとうございます。
なるほど、クララを神話化した弊害ですか。
そうなのかもしれませんね。