
自分はこれまでにいちども愛の幸福を味わったことがないので、あらゆる夢のなかでも最も美しいこの主題のために一つの記念碑を打ちたて、そこで愛の耽溺のきわみを表現したいと思ったのです。こうして「トリスタンとイゾルデ」の構想を得ました。それは単純このうえないが、また、まったくまじり気のない音楽的構想です。
(1854年12月16日付、フランツ・リスト宛手紙)
~日本ワーグナー協会監修/三光長治・高辻知義・三宅幸夫編訳「トリスタンとイゾルデ」(白水社)P3
抜粋だけれど、恐るべき熱気と激しい官能。これぞ「愛の耽溺のきわみ」、あるいは、「まったくまじり気のない音楽的構想」の顕現だといえる。おそらく作曲者本人がもし聴いたらば、卒倒したのではなかったか。
1967年のストックホルム音楽祭での、セルジュ・チェリビダッケとビルギット・ニルソンの奇蹟的協演の記録。第1幕前奏曲に触れて、僕は震えが止まらなかった。そして、ニルソンによる終幕「イゾルデの愛の死」の壮絶な歌唱に言葉を失った。
香りの海に
快く息たえればいいの?
大波が打ち寄せ、
高鳴る響きは鳴りわたり、
世界の息吹が吹きかよう
万有のうちに
溺れ—
沈む—
われ知らぬ—
至高の快楽!
~同上書P141
最後の音が鳴り切り、少しの間を置いての(おそらく聴衆は忘我の境地に誘われ、一瞬拍手すら忘れてしまった感がある)怒涛の喝采。感無量。
しかし、無益なことだ!その心は気を失い、沈んでいってしまう。なぜなら、憧れるものを一度手にしたとしても、それはふたたび新たな憧れを呼び起こすからである。そして最後に衰えた眼差しが疲れ切ったとき、そこには気高き歓喜に到達する予感がほのかに浮かび上がってくるのである。それは死の、もはや存在しないことの、そしてわれわれが狂おしくそこへ入ろうとすればするほど、まったくそこから迷い離れてしまう、かの奇蹟にみちた王国における最後の救済の歓びである。—それを死と名づけようか?・・・
(1859年12月19日付、マティルデ・ヴェーゼンドンク宛の手紙に同封されたワーグナーの標題的注釈)
~同上書P7
エロスがまたエロスを喚起する仕掛けともいうのか、最後は死に至る、それもエロスと同義の死に至る音楽をニルソンとチェリビダッケが描き出す妙。その力は、当然のことながらマティルデに捧げられた「ヴェーゼンドンク歌曲集」の歌にも連鎖する。
そして、翌年1968年の音楽祭でもニルソンの登場と相成り、今度はヴェルディの歌劇アリアが披露された。ニルソンの歌唱によるヴェルディ歌劇のアリアはまるでワーグナーのように内向的であり、鬱積したエネルギーが放出される時の壮絶さは、類を見ず、ヴェルディの内なるエロスを抉り出す。特に、「運命の力」からのレオノーラの最後の祈り!(聴衆の感激を伴った猛烈な歓喜喝采がそのことを証明する)
彼は神を信じない。「なぜなら、神が存在するのを知っているからです」。彼はどの教会にも属さない。「大教会であろうとモスクであろうと天福にあずかれるからです。正しい宗教とか正しくない宗教というものはありません。どれでもいいから、一つの宗教に従いなさい!人間が神と思い込んでいるものはどれも神ではありません。神は表象概念ではない。説明できないものを説明しようとするのは止めなければ!それは思考のテロ行為!」
~クラウス・ウムバッハ著/齋藤純一郎・カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロチェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P321
感覚にアクセスせよとチェリビダッケも言う。
セルジュ・チェリビダッケを聴きたまえ。