今朝、出かける前にフーゴー・ヴォルフを聴いた。
今宵、静かにフーゴー・ヴォルフに耽る。
彼の音楽に通底するワーグナー様(よう)の毒というのは、そもそもこの人が精神を病んだことに因むのか、あるいはその直接の原因となったであろう梅毒そのものの影響もあるのか(シューベルトだってシューマンだって皆あの当時の音楽家は梅毒に冒されている)。ある日突然「わかる」のがフーゴー・ヴォルフの世界。官能的な響きのようで、そして退廃的な響きのようで、実に音楽そのものには「歪んだ健やかさ」がある。「完全」なのだけれど何かが欠ける・・・(それは人間がもたされたエゴによる)、そのあたりが非常に興味深い点。
おそらく、詩の影響も大きい。直接に響くゲーテの言葉と暗くくすんだ独特の音。
そう、それでこそ人間世界から発せられた賜物。完全なる宇宙を示す音楽と、いかにも清純風、かつ理性的でありながら内奥にドロドロした情欲すら秘めるゲーテの詩(この人の言葉はすべてを飲み込み、すべてを融合させる。それに負けないくらいの音楽が付されないと良いものにならない)。掛け合わされることで見事な陰陽バランスを発露するとでも表現しようか。
ワーグナーは音楽の優位性を強調した。ワーグナーの影響下にあるヴォルフはもちろん音楽の優位性を図って作品を創造するのだが、選択する詩そのものとほとんど完璧に「ひとつに」なる(そこはゲーテの詩の力もある)。
ためしに、「ゲーテ歌曲集」の中でも有名な「ミニョンの歌(ご存知ですか、レモンの花咲く国)」。フランツ・シューベルトもロベルト・シューマンも音楽を付しているが、比較試聴してみて思うのは、ヴォルフのものが情念と理性の一体化が抜きん出ているということ(あくまで僕の感性ですが)。
これを前世紀末、当時の人々は理解できなかったのか・・・。まったく誤解だろう・・・。
「ミニョンの歌(ご存知ですか、レモンの花咲く国)」
ご存知ですか、レモンの花咲く国、
濃い葉陰にオレンジが実り、
青い空にさわやかな風が流れ、
ミルテの木は静かに、月桂樹は高くたたずまう国。
ご存知でしょう?
その国へ!その国へ!
あなたと二人して行きたいのです、ああ、恋人よ!
(対訳:喜多尾道冬)
シュヴァルツコップの声質ってこんなに暗かったか・・・?
一聴感じたのはそのこと。相手がヴォルフであるがゆえの演出なのかどうなのか、ここでの彼女の歌は恐ろしいまでの感情がこもる。一方のムーアの伴奏は、いかにも情感豊かなようで実に計算された美しさを誇る。
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