キューマイヤー ノット指揮バンベルク響 R.シュトラウス 4つの最後の歌(2014.9Live)ほか

2014年ベルリン音楽祭でのノット指揮バンベルク交響楽団によるシュトラウスの「4つの最後の歌」を聴いて、僕は痺れた。一切の無駄のない、純白の美しさ。実に素晴らしい。

性格の異なる2つの傑作を並行的に創造するのは天才の成せる業だと思うが、その代表格はベートーヴェンであり、またリヒャルト・シュトラウスであっただろうと思う。
シュトラウスは語る。

神聖な霊感について君が著す本の読者は、私が《エレクトラ》と《ばらの騎士》の作曲中に経験した2つの霊感のまるで異なる様相に、間違いなく興味を覚えることだろう。あれほどまで正反対の性格を持つ2つの台本は、我々の内なる神性の輝きの普遍性とその働きに対して、私の中に限りない驚きの念を呼び起こした。この霊感が内奥に真の創造の意欲を感じている者を鼓舞する力は、無限に思われる。
アーサー・M・エーブル著/吉田幸弘訳「大作曲家が語る音楽の創造と霊感」(出版館ブック・クラブ)P159

神と通じる力こそ普遍の愛だろうが、音楽の創造行為こそその最右翼の表象なのだと思う。シュトラウスは続ける。

着想—動機や主題、構造、旋律、和声の装飾、管弦楽法—が上から降り注ぐ時、—実際に楽譜の一節毎に—私はまるで、異なる2つの全能なる存在によって口授されているような気がした。想像するに、シェイクスピアが『リチャード3世』や『真夏の夜の夢』のような極めて対照的な作品を書いた時、似たような感覚を体験していたのだと思う。
それほどまでに性質が根本的に異なる霊感を受け入れる感受性に、私は驚きで満たされるのだ。

~同上書P159-160

音楽はまさに陰陽二気の世界の中で操られる(繰り広げられる)至高の芸術だといっても良いが、しかしかつて孔子が「楽」を最高位に置いた点から考えると、さらに上位の、陰陽を超えた(すべてが統合された)理の世界に通じる音楽作品の創造こそが天才作曲家たちに課された生涯の目標であったのかもしれないとも思う。リヒャルト・シュトラウスにとってそれは、「サロメ」よりも、あるいは「エレクトラ」よりも神々しく、純粋で、無垢で、これ以上ないというほど人間の感情を超えたところに存在する音楽であった。

(1948年)12月15日、シュトラウスはローザンヌで膀胱結石の難しい手術を受けた。手術後の静養中に、彼はモーツァルトの『クラリネット五重奏曲』、ベートーヴェンの後期の四重奏曲や『フィデリオ』、ヴァーグナーの『トリスタン』などを研究していた。ある日ヴィリー・シューが見舞うと、シュトラウスは話の途中で突然彼の手を取り、眼に涙を浮かべて「もう言い争いは止めましょう。私の頑迷さは直しようがないのです」と言った。それは現代音楽に対する彼の拒絶反応のことだった。
田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P394

最晩年の、悟りの境地の一歩手前(?)であるかのような、和らいだ、そしてすべてを擲ち委ねた姿に何とも心が動く。確かにその頃生み出された「4つの最後の歌」の神性よ。官能を排除したキューマイヤーの歌唱は正統派で、一方ノットの指揮は官能を垂れ流し(?)、ワーグナー張りの音のうねりを創出する。第3曲「眠りにつく時」の癒し、また安寧! あるいは、終曲「夕映えの中で」の死への憧憬!

・リヒャルト・シュトラウス:4つの最後の歌(2014.9Live)
ゲニア・キューマイヤー(ソプラノ)
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」(2006.3Live)
ジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団

そして、血沸き肉躍るバレエ音楽「春の祭典」の激震。いかにもドイツ的な表現と堂に入ったティンパニの一撃に僕はあらためて感極まる。100余年前の初演時の衝撃は、こういうところから来たものなのかどうなのか、ストラヴィンスキーにも同様の神性が宿るようだ。また春が来た。そして、僕たちの魂は原始に戻るのだ。

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