クーベリック指揮バイエルン放送響 マーラー 交響曲第1番(1967.10録音)

無為自然。そこにあるのは大いなる意志の力。
トランペットを効かせたフレーズが決して煩くならず、ただ神々しい。
生命力萌えるグスタフ・マーラーの青春の歌。テンポは揺らぐ。ただしそれは、どんなときも理に適っているのである。
交響曲第1番ニ長調は、第1楽章から大自然への共感が如実で、音楽はドラマティックであり、また喜びに沸く。ラファエル・クーベリックの演奏は、冷静でありながら動的な要素を含む意味深なものだ。例えば、第2楽章も、性急なばかりに音楽が飛び、また跳ねるが、それが聴く者の心に響く。

ところで、マーラーとの出逢いについて、妻のアルマは後に追想し、次のように書く。

20歳になったとき、私は最初の夫であるグスターフ・マーラーを知った。彼はキリストを信じ、ウィーン宮廷オペラ劇場の楽長の地位を獲得するための便宜主義から―おおくの伝記作者は読者にそう思い込ませようとしているが—洗礼を受けたのではなった。この地位をそのころ獲得できるものはカトリック教徒だけであった。その後の数年に私に宛てた一通の手紙がある。それは、プラトンはある意味においてキリストにたちまさっているだろう、という私の議論にたいする返事であった。マーラーは私の議論を確信をもってはっきりと拒絶した。マーラーは教会のなかにはいらないでそのそばを通りすぎるということをほとんどしなかった。しかし私は彼の帰依信心に反感さえもったのであった。彼はまたカトリックの神秘論をことさらに好んでいた。私は—その当時のことなのだが—キリスト教を信じているユダヤ人に反対していた。私はずっとあとになってからまず自分のために教会を、それからもっとあとになってイエス・キリストを発見したのだった。
アルマ・マーラー=ウェルフェル/塚越敏・宮下啓三訳「わが愛の遍歴」(筑摩書房)P21

マーラーはその晩年、ワーグナーの再生論の影響から宗教すら放棄するような思想に傾いていったようだが、それは、彼の魂の根源に大宇宙の真理を求める芯、志があったからだろうと僕は思う。何より、彼の生み出した音楽がすべてを物語る。

・マーラー:交響曲第1番ニ長調(1884-88)
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(1967.10録音)

緩急激しく、音楽は終始うねる。何より終楽章の思い入れたっぷりの爆発。
クーベリックの思念はマーラーの音楽に同化し、音楽家として自立していく作曲家マーラーの希望と自負を表現し、同時に指揮者マーラーの大袈裟で激しい身振りを見事に再現し切る。

私の生涯は繙かれたままの本のように、私の眼前に横たわっている。いまだに父の死、マーラーの、マノンの、フランツの死の情景が目にうかぶ。私の生涯をふり返ってみると、失ったものは多いが、それを嘆くにはあたらない。私が経験することのできた非常に多くの幸福が、苦悩の埋め合わせをしてくれたのだから。
~同上書P299

アルマの自伝の結びには確かにそうある。
あくまで自身に都合の良いように解釈されたものであるが、少なくとも彼女のフィルターを通しての事実には違いない。果たしてグスタフ・マーラーは、彼女と出逢うことができ、また結婚することができ、真に幸福だったのだろう。
アルマ・レントラーとの邂逅前の産物ながら、交響曲第1番にある満ち足りた幸福感と、自然体の美しさは、若いアルマが対立した、マーラーの信仰から生じたものだということは明らかだ。

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