リヒャルト・ワーグナーは、その晩年、真実の道の存在を知覚し、自身の救済こそを求めたが、残念ながら時機が至らず、真の道に出逢うことはなかった。ワーグナーはおそらく、キリスト教にはもはや真理の法はないことを知っていた。
いまこそ、盲目的に荒れ狂う意志の暴威への隷属につながるあらゆる逆行から私たちを守る宗教を新たに打ち建てるべきではなかろうか。私たちはそもそも、日毎の食事において救世主を讃美しているではないか。また私たちは、これまでにすべての宗教を、とりわけあれほどまでに深遠な婆羅門の宗教をさえ醜悪なものに歪めてしまった、あの不気味なアレゴリー的装飾を必要としているのであろうか。
(山地良造訳「宗教と芸術」(1880))
~三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P251
ヘルベルト・ケーゲルの「パルジファル」がことのほか素晴らしい。
ドラマに偏らず。淡々と音楽のみで描かれる舞台神聖祭典劇。それぞれの歌手の力量も影響し、すべての音に真実が刻印され、第1幕の前奏曲から聴く者を虜にする。
かつて俺は聖杯を得ようと躍起になっていたからな。
恐るべき苦しみ!
抑えきれない聖杯への憧れが苦痛だったから、
すさまじく恐ろしい性の衝動を
俺は押し殺し無理やり黙らせた。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P312
クリングゾルの思念は虚構の極致といえまいか。
クンドリの官能は、クリングゾルの本来の性を刺激し、虚構を暴く。
愚者パルジファルは、クンドリの誘惑をものともしない。
永遠にお前と私は呪われるぞ、
たとえひと時でも私が遣わされた意味を忘れて
お前に抱かれたらな!
お前を救うためにも私は遣わされたのだ、
ただしお前は私への憧れを捨てねばならない。
お前の苦しみを終わらせる救済は、
その苦しみの源からは得られない。
救済は決して与えられないぞ、
その源を断たない限り!
救済の源泉は全く別だ!
~同上書P324
パルジファルは肉体から放たれる欲望と闘う。このあたりのケーゲルの表現、そして、オーケストラの演奏は、聴く者の魂を刺激し、深遠なるワーグナーの、いわゆる「再生論」の世界に誘ってくれるよう。
パルジファルは第2幕最後に次の言葉を残す。
わかっているな、どこで私と再会できるか!
~同上書P326
物語の伏線となる第2幕の素晴らしさ。それでこそ、悟りの時が描かれる第3幕が生きる。例えば、グルネマンツとの再会のシーンの神々しさ。
もはや最晩年のワーグナーの思念を代弁するかのような音楽の造形が心に迫る。終幕最後のシーンの合唱の祈りと、それを支えるオーケストラの漠とした音の流れに僕は「パルジファル」の崇高さはもとより、ヘルベルト・ケーゲルという指揮者の凄さに痺れた。
この上なき救いの奇跡!
救済者にも救済が与えられた!
~同上書P336
ところで、井形さんの、”Erlösung dem Erlöser!”を「救済者にも救済が与えられた!」と完了形で訳されている点が興味深い。この部分は昔から取り沙汰されてきた難解な箇所だが、一般的に救済者だと思われている例えば宗教の初祖は決して救済者ではなく、その人たちをこそまず助け上げねばならないことに気づいたワーグナーがとったいわば方便なのだと僕は思う。