ケラスのブリテン

MT4の不具合により、記事の更新がままならない状況。丸4年近くほぼ毎日書いてきたお陰で、拙ブログを楽しみにされている読者さんもそこそこいるような ので、申し訳ない気持ちと残念だという思いが募る。とはいえ、他人様により楽しく読んでもらえるよう少し頭を冷やして方向性を考え直せとか、もっと推敲し てより良いものを書けという神様のお達しかもしれないので、焦らず最善の方法を模索し、今後に活かしたいと前向きに考えりょうにしている。それと、旧ブロ グの移行作業。これも時間を見つけて少しずつこなしていく予定。

ステージ後ろ真正面という座席が功を奏したのか、昨日の札響のコンサートの熱気が冷めやらない。ショスタコーヴィチの作品には当然感動した。晩年のチェロ協奏曲然り、青年期の第5交響曲然り、楽器の動きや音楽の進行を具に追っていくと、ショスタコーヴィチの「天才」が手に取るようにわかって面白い。

コンサートでは、オーケストラの中に入って共にステージ上で演奏しているような錯覚にとらわれる「音浴」聴きが素敵。昨年の夏に多治見公演のリハーサルのために譜めくりを経験したその時と同じような感覚。ミクローシュ・ペレーニの弾くショスタコーヴィチの「真実の声」。チェロという楽器がもつ可能性。様々なことが頭の中を駆け巡った。 

ところで、先日NHKで観たジャン=ギアン・ケラスの演奏。ペレーニを彷彿とさせる、その時のブリテンのチェロ・ソナタ終楽章は圧巻だった。デビュー作の「無伴奏チェロ組曲」とはまた違った、ピアニストとの駆け引きの中で繰り広げられるパッショネートなプレイが美しい。

ブリテン:
・無伴奏チェロ組曲第1番作品72(1964)
・無伴奏チェロ組曲第2番作品80(1967)
・無伴奏チェロ組曲第3番作品87(1972)
ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)

1966年に作曲されたショスタコの第2協奏曲といい、上記ブリテンのチェロ組曲といい、これほどまでに渋く、聴衆に媚びない音楽はなかろう。いずれの作品も、聴 き込むにつれ一気にその意味が理解できる日が到来する。晩年の思索を音化するのにチェロという楽器が相応しいのかどうか、それは僕にはわからない。

けれども、いかにも晦渋な音楽の中に「平和」や「愛」というものを希求する、そんな「想い」が詰まっているように僕には感じとれる。それは決して「絶望」ではない。「希望」に溢れた、未来に夢見る音の連鎖。やっぱり素敵・・・だ。

 

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