クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管のブルックナー交響曲第6番(1964.11録音)を聴いて思ふ

「神との対話」のために、ブルックナーは教会音楽を作曲し、「人間たちとの対話」のために、交響曲を作曲した。アントーン・ブルックナーの強力な個性において統一されている二つの異なった世界は、神に、心寄せる深い信仰について同時に、俗世に開かれた心ばえについて語っている。双方が強力な言葉によってわれわれに語りかけてくる。我々はその相方を、巨匠が考えた通りに受容しようではないか。教会空間においては神に捧げられたものを、俗世の空間においては人間に贈られたものを。
(レオポルト・ノヴァーク/礒山雅訳「ブルックナーにおける交響様式と教会様式」)
「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P199

清濁あわせ飲むブルックナー。
アントン・ブルックナーの6番目の交響曲は、実は渾身の、大変な傑作なのではないかと今更ながら思った。ベートーヴェンでいうところの8番目の交響曲に比肩する、一見コンパクトながら極めてバランス良く、地味ながら慈愛に満ちる名曲とでもいうのか。

オットー・クレンペラーの録音を聴いた。
クレンペラーならではの揺るぎない造形。微動だにしない構成が、作曲家の確信的革新を助長するように僕たちの眼前に聳え立つ。それこそ音楽の核心をついた絶妙な音運び。しかしながら、必ずしも世間の評判は良いものではない。
ちなみに、かつて宇野功芳さんは次のように評している。

「第六」もヨッフムで聴くと背中がぞくぞくするような清らかな寂しさがあるが、クレンペラーの表現からはそのようなブルックナーの醍醐味がさっぱり伝わって来ない。但し彼自身としては緻密な表現である。
宇野功芳著「モーツァルトとブルックナー」(帰徳書房)P269

宇野さんのいう「醍醐味」とは一体何を指すのだろう?おそらく客観的でありながらそれでいて豊かな感情を有する表現をいうのだろうが、今の僕に言わせれば、クレンペラーのブルックナーは、十分に「醍醐味」が伝わる。例えば、第1楽章マエストーソのゆったりとしたテンポの表情から垣間見られる作品の細部にわたる蠢きとでもいうのか、何より血が通い、生きているのである。また、第2楽章アダージョも、冒頭から柔和な音調が醸され、その音楽にずっと浸っていたいと思わせるほどの説得力と美しさが間違いなくある。何という高み!繰り返し聴くごとに味わい深い表現。

・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(ハース版1881年稿)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1964.11.6, 10-12&16-19録音)

第3楽章スケルツォは遅からず速からず、心地良いテンポで音楽が奏でられ、主部の金管の咆哮も、トリオにおける安息の歌も実に心地良い。
さらに、終楽章のブルックナーらしい宇宙的拡がりの体現は立派なものであるし、滲み出る愉悦の感情が、当時の作曲家の幸福感を的確に捉えていて、やっぱり彼の音楽は無感情、無感動ではないと僕は思うのである。

フィルハーモニカーたちは私の第六交響曲を受け入れてくれました。他の作曲家たちの交響曲はすべて退けられたのです。
(1882年10月13日付、レオポルト・ホフマイヤー宛手紙)
~根岸一美著「作曲家◎他人と作品シリーズ ブルックナー」(音楽之友社)P98

傑作だ。

 

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2 COMMENTS

雅之

オーディオが異なれば、演奏の印象ががらりと変わることだってクラシックではよくあるでしょうしね。こっちの気分や体調によってもね。そんな当たり前の事実も無視していいんでしょうかね?

>「第六」もヨッフムで聴くと背中がぞくぞくするような清らかな寂しさがあるが、クレンペラーの表現からはそのようなブルックナーの醍醐味がさっぱり伝わって来ない。但し彼自身としては緻密な表現である。
~宇野功芳著「モーツァルトとブルックナー」(帰徳書房)P269

>宇野さんのいう「醍醐味」とは一体何を指すのだろう?

時間が無いので、まあ、勝手にしてくれや。

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岡本 浩和

>雅之様

視点が変わればすべてが変わりますよね。

>まあ、勝手にしてくれや。

はい、こればっかりは宇野さんに聴かないとわからないかもしれません・・・。

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