
生と死の問題を解決することはできるのか?
信仰あればそれは可能だと信じられていた時代の物語。
修道僧アタナエルの苦悩。
若い頃、高級娼婦タイスの魅力にとりつかれ、過ちを犯しそうになるのを神が守ってくれたのだと彼は告白する。そして、故郷アレクサンドリアを堕落させるタイスの肉欲を制し、彼女の魂を救いたいのだと祈る。しかし一方で、修道長は決して俗人と交わってはいけないと諭す。
ジュール・マスネの歌劇「タイス」。1894年3月16日、パリはオペラ座での初演。
第2幕に有名な「瞑想曲」を持つこのオペラは、聖俗の拮抗を土台に真の愛の尊さを説くが、終幕タイスの命が救われても、アタナエルは嘆き悲しむことが物語るように、生死の問題の解決には結局至っていないのだろうと僕には思われる。
それほどにかつて(あえて「かつて」という)、悟ることは難事だった。
しかし、永遠の幸福に導かれるというアタナエルの箴言に、タイスは反応する。老いや死に対しての不安を覚えるタイスにとって、「永遠の命」という言葉は絶対だった。タイスの心が徐々に溶けていくその様子を示すのが「瞑想曲」。ここでは指揮者マゼールが、見事なヴァイオリン独奏を聴かせてくれる。
死を目前にした、つまりここでは永遠の命を得たタイスと修道僧アタナエルの(「瞑想曲」の旋律に乗って歌われる)最後の二重唱が何だかとても哀しく響く。
「ここへ連れてきてくださった時の道を覚えていますか」
「おまえの美しさしか覚えていない」
「冷たいオアシスの安らぎを覚えていますか」
「ああ、お前への鎮まらぬ渇望しか覚えていない!」
「あなたの聖なる言葉で、真実の愛を知りました」
「私は嘘をついた!」
「天国が見える、永遠の朝の薔薇だわ!」
「私は嘘をついた!天国なんてない、愛だけが真実だ!愛しているよ!」
「天国の扉が開いたわ。天使が見える・・・たくさんの花束を抱えて・・・」
「聞いてくれ!私のタイス! 愛している・・・愛しているんだ、タイス!生きると言ってくれ!」
「素敵な黄金のハープの音、芳しい香りだわ! なんて幸せなのでしょう。もうすべての苦しみは過去のものね」
「ああタイス!私のタイス! 愛している! 戻ってきてくれ!」
「ああ、天国だわ!・・・神様!」
僕たちの魂はもともと永遠なのだということを忘れてはなるまい。
生も死も一時の幻想なのだといえる。
マスネの音楽の何と荘厳で美しいことか。
ちなみにマスネは、1886年夏、バイロイトにて舞台神聖祭典劇「パルジファル」を、その直後、ミュンヘンにも立ち寄って楽劇「ワルキューレ」を鑑賞し、あらためてワーグナーの管弦楽法に心酔したという。彼の音楽の根底に流れるものは、ワーグナー流の官能であり、また、神聖なる信仰。
今も昔も変わらぬ真我と仮我の葛藤のドラマに、マスネの美しい音楽が花を添える。繰り返し聴くに及び、マスネの天才、「タイス」の音楽の美しさに心奪われる。聖なる主題の中に、いかにも人間的なドラマの妙に時間さえ忘れてしまうほど。
オペラ座の歴史は、王の個人的な趣味によって与えられたのではなく、王の権威によって授けられてきたのである。オペラ座の空間は、王にふさわしい豪華さが視覚的聴覚的に誇示されるための儀式の場としては、十分な潜在性をもっていた。神の下に、臣民の上に位置した王の儀式は、堂々としたファサードをもち、格調高く装飾された大ホールと大理石の階段をもち、それに比べれば音響も舞台の見通しも悪く、桟敷間の階段差だけがはっきり見分けられる観客席をもったオペラ座において、聖なるものと俗なるもののアマルガムを形成するのであった。側近たちにとって、王が本当にオペラを愛することなどどちらでも良いことであった、いやむしろ、本当に愛されては困ったであろう。
~音楽之友社編「オペラ—その華麗なる美の饗宴」P137
王が本当にオペラを愛することなどどちらでも良かったということと、そもそもオペラ座そのものがアマルガム(混合物)であったことを知ることは、古から続く欧州オペラというものを理解する上で重要なポイントだろう。作曲家がいかに腕を競うかなど、悲しい哉、あまり意味を持たないということだ。しかしむしろ、そのことにこそオペラの美しさの芯を捉えるヒントがあろう。
アマルガムとしてのタイスの物語の深層をいかに聴き取るか。
ロリン・マゼールの音楽作りが素晴らしい。