宇宿允人指揮フロイデ・フィル チャイコフスキー 交響曲第5番ほか(2007.8.30Live)

最晩年の宇宿允人の実演に何度も触れて、当時僕は思った。
本当に素晴らしい音楽を創造する人だと。
偏屈だけれど、音楽に対しては誠心誠意の人で、おそらくその日の調子によって演奏は左右され、その分超名演奏のときもあれば、あり得ないくらいの凡演のときもあった。
ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」は、(決して大袈裟でなく)フルトヴェングラーを髣髴とさせる名演だったし、ムソルグスキーの「展覧会の絵」も手に汗握る、実に有機的な演奏だった。あるいは、チャイコフスキー・プログラムのときは、心から感動した。オーケストラは寄せ集めだが、おそらく指揮者の信念をきちんと音化できる腕を持った人が多かったのだろうと想像する。

宇宿さんが亡くなって10年とは驚きだ。
僕はあの日、墨田区の某所で訃報を聞いて愕然とした。もはやあの風変わりな(?)、しかし、真面で(矛盾するようだが)濃厚な音楽を享受することのできない哀しみというのか。否、それよりも終演後、必ずステージ上でマイクをもってその日の感想などを披露される宇宿さんの、何とも人間的な言葉が二度と聞くことができなくなったことが僕は本当に寂しかった。

宇宿允人の世界25
チャイコフスキー:
・幻想序曲「ロメオとジュリエット」
・バレエ音楽「白鳥の湖」作品20抜粋
・交響曲第5番ホ短調作品64
宇宿允人指揮フロイデ・フィルハーモニー(2007.8.30Live)

池袋は芸術劇場での実況録音。
この日の演奏を僕は聴いた。今でも脳裏を過る有機的な音に、そして、生き物のような音楽に、僕は心底感動していた。確かに音盤には記録されない不可思議な「気」があの会場には漲っていた。宇宿允人の演奏の本懐は、おそらく実演でない限り享受しえないのではないかと僕は思う。

今となっては、あの日の感動を再び味わうにはこの音盤を通してしかない。記憶を頼りに、音響を補完しつつ追体験する「宇宿允人の世界」。チャイコフスキーの交響曲第5番には確かに痺れた。それにもまして「ロメオとジュリエット」の凄演に参った。

生前の朝比奈隆が「チェリビダッケという人はやっていることは結果として非常にまともですね。何であの人が天下の奇人みたいに言われるんでしょうね」という意味のことを語っているのを読んだ記憶がある。チェリビダッケにしろ、カルロス・クライバーにしろ、個性的な指揮者といえば聞こえはよいが、要するに奇人変人ということだろう。
現代の魯山人(最も有名なる無名人)奇人(鬼神?)指揮者宇宿允人。昔さる高名な評論家が「仲良きことは美しきことかな。などという奴は楽天家だ。仲の悪いことが美しい場合もあり、仲の良いことが醜い場合も多々あるのである」とか言っていたが、差し詰め宇宿の激しい怒声の飛び交うリハーサルなど仲の悪いことが美しい場合の典型だろう。奇人、変人と、毀誉褒貶の激しい宇宿だが、その実力はまさに本物! 宇宿は魯山人同様、ウソのつけない、妥協を知らぬ人間に相違あるまい。「練習で泣いて本番で笑え」結局、精神性は「技術」によってしか伝わらないし、それを磨くには技術を磨くしかないのであるが・・・。

(浅岡弘和)
~「音楽現代」2003年1月号P122

世間の評価など当てにならぬ。
僕は宇宿允人の実演に何度も触れられて良かったと心から思う。

宇宿允人が亡くなった日から1週間後に東日本大震災があった。

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