クーベリック指揮バイエルン放送響 マーラー 交響曲第5番(1971.1録音)

昔、マーラーの音楽に、特に交響曲第5番を理解するのに手こずっていたとき、ラファエル・クーベリックがバイエルン放送響を振った録音を聴いて、僕は目から鱗が落ちた。何の変哲もない(?)、特別な仕掛けがあるわけではない、誠心誠意のマーラーに僕は心底感激した。作品の全体像がこれほどスマートに、そして素直に心の中に入ってきたことがなかったせいか、そのレコードは一層僕の心を動かした。

かつて吉田秀和さんは、クーベリックのマーラーを評して次のように書いた。

現代のマーラー指揮者の中で、ショルティを最もテンペラメントに富んだ、そうして最も近代的なエスプレッシーヴォ・スタイルの指揮者の最右翼に数えるとすれば、クーベリックは、そのショルティとも、それから熱狂的で、しかも同時に、知的というより頭脳的で、ときによると、ややこしらえものじみた気味がないわけでもないバーンスタインとも、全然ちがった一角を占める代表的存在である。クーベリックのテンポは、マーラーをやる時でさえ、よく流れ無理がなく、力強くて、甘さの少ない、というよりむしろ渋いアクセントをもっているので、レコードできいても、ほかの人びとと比較的よく区別できる。しかも、マーラーの音楽の詩味がけっして失われていないのが、この人のよい点である。表現は自然で健康で無理がなく、マーラーというと、とかく指揮者が陥りがちのセンチメンタルな誇張が用心深く避けられている。
「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P236-237

今から50年も前の論であるにもかかわらず、マーラーの音楽そのものとクーベリックのマーラーをこれほど的確に表した評に僕は思わず膝を打った。何より彼の解釈が、自然体であることが最大のポイントなのだと僕は思う。中で最も感銘を受けるのは、第3部、すなわち第4楽章アダージェットを序奏にしての、整頓された、しかし、決して冷たいものではない、内なる喜びの充溢した終楽章ロンドだ。

・マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(1971.1録音)

第1部第1楽章葬送行進曲は、意気揚々と高鳴るトランペットを合図とするが、クーベリックのそれは概ね暗さを排除する。適切なテンポを保ちながら、余計な意図は入れず、ただひたすらマーラーの意志を表現する。第2楽章についても然り。

あるいは、交響曲の中心となる第2部第3楽章スケルツォについても、終楽章同様何と見通しに優れた演奏だろう。そして、金管群の胸を張った(?)咆哮に感涙。

楽章の配置のために(通常の第1楽章は、第2楽章の後にならないと出てきません)「交響曲全曲」の調性を示すのは困難ですから、誤解を避けるべくそのようなものは表記しないままにしておきましょう(主要楽章(第2楽章)はイ短調—アンダンテ(第1楽章)は嬰ハ短調)。
主要楽章に従って交響曲(の調性)を名づけますが—しかしそれは第1番目に主要楽章が来るときに限られます、従来はつねにそうでありましたが—ただこの作品のみは例外となります。

(1904年7月23日付、ペータース出版宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P306-307

マーラーの出版社宛の手紙が興味深い。
3つのパートを持つ交響曲と解したとき、音楽を実にすっきりと心に響くようになる。開かれたマーラーなり。

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