フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 交響曲第5番(1937.10&11録音)ほか

「武満徹 音楽創造の旅」の取材秘話(重松卓)が面白い。

話がなかなか核心に入って行かない。インタビューは3時間という約束である。時間が気になって仕方がない。しかし立花さんのツボを押さえた質問のせいもあって、武満氏は時間のことなど忘れたように語り続ける。武満氏は一見、気難しそうに見えるけれど、実は大変な座談の名手で、ユーモアのセンスも抜群なのだった。結局、インタビューが終わったのは深夜の11時。3時間の約束が、とうとう9時間も付き合わせることになった。そのうえ、立花さんは追加のインタビューの約束まで取りつけてしまったのである。
立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P573

立花さんのルポルタージュというのは取材姿勢含め本当に素晴らしい。インタビュアーとしての腕がとにかく並大抵でないのである。武満さんが亡くなった後も引き続き「文學界」で連載された記事を読んでみると、さらに深掘りのための本人へのインタビューが不可能になったにもかかわらず、過去の言質や著作から縦横に引用して、一層興味深い内容になっているのだから驚くばかり。

—だけど、ベートーヴェンの音楽にしろ、ほかの古典音楽にしろ、構造的に精緻に分析可能というか、説明できる音楽になってるわけでしょう。
「そうです。ベートーヴェンの『運命』なんか、本当に構造的にきちっと分析できるし、首尾一貫している。あれはどんな形で演奏しても崩れない。実に堅牢な構築物です。だけどぼくらはそれが堅牢な構造物であるところに感動するわけじゃない。もっとちがうものに感動している。それが何かというと、ぼくは結局響きだと思うんです」
—構造的に説明できるものは、あくまでも器にすぎないのであって、器の中に入っているものは、説明できないものだと。
「そうですね。論理的に説明できるのはコンテナについてであって、そこに盛られているコンテンツは論理的には説明できない。しかしその一方で、コンテナとコンテンツは分かちがたく結びついて一体となっているという側面もある」
—コンテンツのほうは何かと問われると、ロジカルな説明がつけられなくて、言葉にするなら詩的言語で語らなければならないということなんでしょうね。
「ええ。ロジカルに語れるのは、やはり方法論であって、本当の音楽は、方法論の向こうにあるんだということですよ」

~同上書P662

武満の言葉はいつも明快だ。コンテナとコンテンツの話に僕は膝を打った。肉体と霊性が合一して僕たちが今生きているのだという概念とまったく同じ。側だけをとらえ、側にとらわれ過ぎていると真実が見えなくなる。僕たちが本性=霊性というものを正しくとらえない限り迷い続けるのと同じく、音楽も体験し、感じ取る以外術はないのである。

ちなみに、武満さんはあえて「響き」という単語で結論めいたことを語っておられるが、おそらく音楽の「響き」だけではないと僕は思う(場の空気も、楽器のバランスも、そして時間の経過もすべてコンテンツだ)。

・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67(1937.10.8&11.3録音)
・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1938.2.11録音)
—第1幕前奏曲
—第3幕「イゾルデの愛の死」
・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」(1938.3.15録音)
—第1幕前奏曲
—第3幕「聖金曜日の奇蹟」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

戦前の、生気ほとばしるベートーヴェンとワーグナー。
いずれもベルリンはベートーヴェンザールでの録音だが、音質は古いながら生々しく、響きそのものもとても豊かだ。ベートーヴェンは、以降スタジオ録音にせよライヴ録音にせよ一層素晴らしい演奏が出ているので、37年のSP復刻盤は見劣りするが、それでも若々しさと音楽に没入する意思のという点からいうと、最晩年のスタジオ盤以上に神々しく、そして力が漲る。

そして、もはや幾度も書いているが、ワーグナーの素晴らしさはほかのすべてを圧倒し、あらゆる音楽を凌駕するほどだ(あくまで好みの問題だが、音質という点ではオーパス蔵盤に一歩を譲る)。

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