武満徹は、晩年になってようやくブラームスを再評価したそうだ。
特に、ブラームスの室内楽は極めて構造的だと彼は指摘する。
ブラームスのヴァイオリン・ソナタとか、クラリネット・ソナタの旋律の作り方は実に構造的なんですね。彼自身はいちいちそういうことを考えて作ったのではないと思うんですが、一つの旋律の中に同時に音楽の全体像が封じこめられているとでもいったらいいような構造性があるわけです。最近、新しい数学理論でフラクタル図形というのがありますね。どの部分をとっても、その中に図形の全体像が表現されているという独特の構造になっている。ああいう感じなんです。
~立花隆「武満徹・音楽創造への旅」(文藝春秋)P606
自分の音楽にはそういう構造性が最も欠けていて、それをもっと勉強しなければいけないと気づいたそうなのだが、そういう謙虚さがまた武満徹の素敵なところだ。天才は自省する。そして彼はまた、ベートーヴェンの中にも同じものを見出したと語る。
ベートーヴェンの場合も、フラクタル図形のように、細部に全体が含まれているという構造がある。ぼくは数学のことはよくわかりませんけど、あのフラクタルというのは、音楽を解明する上でとても重要な概念だと思っています。音楽の神秘性みたいなもの、すばらしい音楽をなりたたせている秘密の相当部分が、あれでわかってくるんじゃないかという気がします。
~同上書P607
世の中のあらゆる事象を微分していくと、最終的には数学に行き着くのだろうと思う。音楽などその最たるものであり、天才は意識せず、フラクタル理論なるものを手の内にしているのだということだ(構造的でないと自省する武満の作品ですら実際はフラクタルの中にある)。
鬼気迫るヨハネス・ブラームス。
果たしてここまでの疾風怒濤がブラームスの作品に見合っているのかどうなのかはわからない。しかし、戦時中のフルトヴェングラーの演奏の常で、異様なテンションとパッションが音の隅々に刷り込まれ、音楽のあまりの激流につい時間を忘れてしまうほど。しかし、縦の線よりも横の線、すなわち時間の経緯を重視するフルトヴェングラーの解釈にあって、細部に全体が含まれているという事実がよくわかるのは、とても興味深いことだ(例えば、テンポの伸縮一つとっても各楽章と全体においてフラクタル構造を示す)。
ブラームス:
・交響曲第4番ホ短調作品98
・ハイドンの主題による変奏曲作品56a
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1943.12.12&15Live)
30年前に新世界レコード社から発売されたいわゆるメロディア盤の音質は、今もって驚異的だ。戦時中とは思えぬ鮮明な音、何より重厚かつ分離の良さ。これでこそフルトヴェングラーのブラームスを楽しめるのだ。48年10月のライヴも確かにフルトヴェングラーらしい動的で嵐のような解釈だけれど、43年12月のライヴの、背水の陣を敷いて自身のすべてをぶちまけたような演奏に僕は痺れが止まらない。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭の主題からフルトヴェングラー節で、一気に音楽に惹き込まれてしまう。何より終楽章パッサカリア(アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショナート)の大宇宙を飲み込んでしまうような思念の解放よ(これぞフラクタル!)。
なお、本メロディア盤では、1942年6月21日の実況録音だと明記されているが、間違いのようだ。