プレートル指揮ウィーン響 マーラー 交響曲第6番(1991.10.10Live)

マーラーは次の1903年と1904年の夏には、「交響曲第6番」の作曲にとりくんだ。マーラー自身の説明によれば、この作品の第1楽章のヘ長調の第2主題は、天翔けるようなアルマの主題であり、また第2楽章の「スケルツォ」では、砂の上をよちよちと歩く二人の子供の姿を描いているという。しかしこの作品の第4楽章では、「ハンマー」が用いられて、英雄をたおす運命の打撃の象徴として打たれるのである。マーラーとアルマの間には、1902年11月3日に長女マリア・アンナ(愛称プッツィ)が、1904年6月15日に次女アンナ・ユスティーネ(愛称グッキー)が生まれ、この「交響曲第6番」が作曲されている頃は、アルマとプッツィとグッキーはいたって健康で、マーラー家は幸福の絶頂にあった。しかしそれから数年もしない1907年7月12日に、長女のマリア・アンナは、ジフテリアのためにこの世を去ってしまうのである。
船山隆「カラー版作曲家の生涯 マーラー」(新潮文庫)P143

作曲の背景を知ると、確かに作品は身近になる。
しかし、音楽そのものは時を経て独り歩きを始める。果たしてこの作品にマーラーが意図したものは何か? 「悲劇的」と題される交響曲は、間もなく訪れる家族の不幸を予知してものだという見解もあろう。しかし、音調がどんなものであれ、また、ハンマーやカウベルをはじめとして珍しい楽器をどう使用しようとマーラーが求めたものは、単に「新しい音楽」だったのではなかったか。ここにはやはり幸せの投影しかないと僕は思う(彼が潜在的に持っていた不安や厭世観は無意識に刷り込まれているかもしれないが)。

「悲劇的」とは名ばかりの、幸福感に満ちる交響曲第6番。

・マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
ジョルジュ・プレートル指揮ウィーン交響楽団(1991.10.10Live)

ウィーンはムジークフェラインザールでの実況録音。
前のめりの激性溢れる音楽は、老練の棒の成せる業。いや、それよりも驚くほどの若々しさ、振幅があり、それでいてすべてが調和を保つ、全体観に優れた演奏に感激。第1楽章アレグロ・エネルギーコ,マ・ノン・トロッポの真に迫る音響に、当日その場に居合わせた聴衆は卒倒したのではなかろうかと想像する。また、第2楽章スケルツォの、よちよち歩きの子供というより、幼小に還るマーラー自身の道化を表現するような諧謔に喜びを思う。そして、第3楽章アンダンテ・モデラートの安らぐ静かな美しさ(時に見せる恍惚の表情が堪らない)。まさに幸福の絶頂時の心の内を見事に映し出す演奏だ。
白眉は終楽章アレグロ・モデラート。思念を抑えて、ただひたすら音楽に没頭するプレートルの自然体の業。「運命の打撃」たるハンマーの地鳴りのような音響もここでは何とも優しく響く。阿鼻叫喚などではない、これぞ世界が創造される瞬間の音。

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