気の世界を超えられなかったリヒャルト・ワーグナーの本性は、きっと意気消沈したことだろう。その時代が来るまで、彼の命は持たなかった。
ヴァーグナーとともに両極端が意識されるにいたった。底知れぬ沈潜、個々の和音の緊張、解体的な作用などに、きわめて意志強固な終結とカデンツ構成とが相対している。それゆえ彼はロマン主義者ではない。「トリスタン」においてすら、とどのつまりは絶えず活動力と現実性とに考慮が払われているのであるから。
(1936年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P18-19
戦争の世紀に、フルトヴェングラーが見据えたワーグナーの本質はそんなところだった。
同時にフルトヴェングラーは次のように書く。
真の芸術とは何か。技巧に走ることを必要としない能力である。
(1936年)
~同上書P19
本物は、間違いなく真理に根差している。小手先で事が済むのなら、録音技術が発展すれば、すべてのレコーディングが割れんばかりの歓声をもって迎えられるべき真の音楽となろう。しかし、現実にはそうはなっていない。
80余年も前の古い録音がもたらす感動よ。幾度耳にしてもその音楽が耳に焼き付いて離れない至高の名演奏をまたしてもとり上げん。
永遠なり、普遍なり。
朗々たる音響と、滔々と流れる大河のごとくのうねりに言葉がない。特に、「パルジファル」と「トリスタンとイゾルデ」からの抜粋に見る陶酔。確かにワーグナーの音楽には、この二元世界から現出したであろう毒がある。しかも、フルトヴェングラーはその毒を簡単に中和させまいと無心で棒を振る。ワーグナーは、彼が言うようにきっと現実主義者なのだ。
私たちはいかなる政党にも所属せず、ひたすら人間がみずからの尊厳に目覚めることに救いを求めている。私たちはそうした政党から無用の存在として閉め出されているわけだから、他人事ではないと憂慮しながらも、夢を見ている連中の痙攣をひたすら傍観するばかりである。それというのも私たちがどんなに叫んだところで、彼らの耳に届くことはないからである。私たちとしては、時至ればおのずと自分自身から目覚める者に至醇の慰めを与えるべく、最善の力を蓄え、養い、強化する以外にない。
(宇野道義訳「汝自身を知れ」1881年)
~三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P311
ワーグナーの晩年の的を射た思想に驚嘆する。
そう、僕たちは自ら自分自身に目覚める以外ないのだ。そして、今、ようやくそういう時期が到来していることを知らねばならない。「イゾルデの愛の死」の哀しくも喜びに満ちた恍惚よ。
[…] はや幾度も書いているが、ワーグナーの素晴らしさはほかのすべてを圧倒し、あらゆる音楽を凌駕するほどだ(あくまで好みの問題だが、音質という点ではオーパス蔵盤に一歩を譲る)。 […]